能楽雑記帳

観世流能楽師・中所宜夫の「能楽雑記帳」

 

第十五回  「花を奉る」について

 

石牟礼道子さんが震災後の世界に向けて発表した「花を奉る」という詩のことは、以前にも少し書いたかも知れません。私がこの詩を読んだのは昨年の4月か5月だったと思います。NHKのデレビ番組で紹介されたそうですが、私はツィッターのリンクを辿ってこの詩を知りました。その言葉のひとつひとつが圧倒的に迫って来ます。

震災後の混乱の中で友人の詩人和合亮一がツイッターで詩の投稿を始め、敬愛する哲学者内田樹さんが「原発の鎮魂」という言葉を述べられ、その役割の一端を能は担うことが出来ると、いささか前のめりに意気込み、以前宮沢賢治さんの言葉を組み合わせて『光の素足』を書いたように、和合の作品『詩の礫(つぶて)』の言葉を使って「原発の鎮魂」をするような、そんな新しい能が書けないだろうか、能にはその可能性と力があるはずだと、気ばかり焦っている自分の中に、「花を奉る」の言葉は重く重く染み込んで来ます。

今となっては信じられないことですが、私はその時まで石牟礼道子という人のことを、ほとんど何も知らなかったのです。高校時代に国語の教科書に『苦海浄土』の一部が載っていました。またその時の国語の先生が、好きな作家として石牟礼道子さんの名前を挙げていらっしゃいました。しかし、当時の自分にはそこに共鳴するだけの内実がなかったのでしょう、全く引っ掛ることなく通り過ぎてしまっていました。しかしこの詩に出会った時に、そういえば池澤夏樹が個人で選んだ河出書房新社の世界文学全集の中に、日本の作家として唯一人、石牟礼道子さんが選ばれていることに思い当りました。そして河出版の『苦海浄土』を随分長い時間を掛けて読みました。池澤さんが紹介文の中に、文学好きな主婦がたまたま奇病と出会った、その記録としてこの作品を読むならば、いっそ読まない方が良いというようなことを書いていらっしゃいました。確かにその通りなのですが、私はまさにそのように考えていたから今まで読まずにいたわけで、読んでみればその作品と作家の稀有な存在がひしひしと胸に迫ります。水俣病は悲劇だけれど、そこに石牟礼道子という人がいたというこ

とは、私達にとって幸せなことであったとさえ思えます。

また別の時に私のそういう遍歴とは無関係に、友人の一人が鶴見和子さんの仕事を私に語ってくれました。そして鶴見和子さんと石牟礼道子さんの交流や対談を知りました。鶴見さんは「近代」の意味を再検討するということをされていて、近代の歪みの最たるものとして水俣に注目し、石牟礼さんと出会われたようです。また南方熊楠を通して文化の交流点としての「萃点(すいてん)」という概念を獲得され、それを発展させた社会改革モデルのようなものを考えていらっしゃいます。その時私が感じたのは、社会を変えていくのは政治でも経済でもなく文化なのではないか、ということです。もっとも文化を作りだすのは政治でもあり経済でもあるので、こういう言い方はあまりに単純過ぎるのですが、能という現実離れした世界に住むものには、自分たちの仕事が社会を動かすことになるという思いは、なかなか捨て難いものでした。

しかし考えてみれば「原発の鎮魂」などまだまだ遠い未来の話に過ぎません。「原発」は私達に、生存の基盤を根こそぎにする可能性を明かにし、差別を土台にして初めて運営可能であることを晒し、敗戦国であるがゆえに戦勝国から押し付けられた子細をカミングアウトしているにも関らず、未だ多くの人がそれでも「原発は必要だ」と口にするほど、中毒性の強い代物なのですから。

詩の音律と陰影から能の姿が…

 

私はまず、詩「花を奉る」に節付けをすることから始めてみました。かなり専門的になりますが、冒頭から少し追ってみましょう。(以下の引用の表記は、私が謡本にする時に少し変えています。)

「春風きざすといえども。我等人類の業いまや重なりて。三界いわんかたなく昏し。」幕を出て来たシテが橋掛りを歩み行き、ふと立ち止まって謡う言葉です。このシテがどのような役なのか、実はこの時にはまだ決まっていませんでした。しかしどの様な情況の中にこの人がいるのか、この三句は言い尽くしています。ヨワ吟のサシの謡いから始まって、ツヨ吟に移り、またヨワ吟の低い音で「暗し」と謡います。シテの登場の謡でこのようにヨワ吟とツヨ吟が一句毎に入れ変るのは『忠度(ただのり)』や『箙(えびら)』の前シテにもあります。

そしてさらに「まなこを沈めてわずかに日々を忍ぶに。何に誘(いざな)わるるにや。虚空はるかに一連の花。まさに開かんとするを聞く」と続きます。「何に誘わるるにや」と視線は右上方の空間に伸び、「虚空はるかに」からは高い響きの声になるようヨワ吟のクリ音を使い、「まさに開かんとする」と視覚に訴えつつ「聞く」となっているところに、また吟を変えてツヨ吟を混ぜながらヨワ吟で収めます。

ここからシテは舞台へ歩み行き「ひとひらの花弁彼方に身じろぐを。まぼろしの如く(これを)見れば。常世なる仄明りを花その懐に抱けり」と続くのですが、シテが動くことによりシテは「ひとひらのに花弁」に同期して、虚空に咲く花に焦点が移動します。この部分に視点の移動とそれに伴う時間の経過があります。そして能のシテがこのような形式で舞台に入って来ると、「翔(カケリ)」と呼ばれる短い演奏に合わせて舞台をひと回りする舞を舞うのです。その後「常世なる仄(ほの)明り」がその花の中に宿っていることに気がつくと、「常世の仄明り」について、少し客観的な説明に移ってゆきます。「常世の仄明り」とは。暁の蓮沼に。揺るる蕾の如くにして。我等世々の悲願を表せり。」この部分が丁度シテの出を受けて謡う地謡の下歌に填ります。

長々と専門的な話を致しましたが、この作業をしている時の私の驚きを知って頂けるでしょうか。言葉の意味を考えてそれに相応しい節付けをしてみると、古典の作品の持つ形式にピタリピタリと填ってゆき、所作の型までも言葉の意味を補うように決まってゆくのです。冒頭の部分だけではなく、この後も同様で、特に後半には、ここで過去を回想するような静かな舞を舞いたいと思う所に、「序之舞」という静かな女物の能で舞う舞いを挿入してみると、その後には決まりの形式にピッタリの言葉が用意されているのです。「花を奉る」全編を節付けしてみると、丁度三十分程の夢幻能の後場のような作品が出来ました。

様々な形でのらいぶ公演

その作品を最初に披露したのは昨年六月、岩手県北上市和賀町にある慶昌寺というお寺での「花まつり能楽らいぶ」でした。その時はシテと地謡だけで舞は入りませんでした。この時にお客様より、この作品を是非能として完成させて下さいという言葉を頂戴しました。しかし能に仕立てるためのストーリーがなかなか思い浮びません。こういう場合は無理にひねり出すようなことはせず、いろいろな形式で「らいぶ」公演を重ねながら、その可能性を探ってゆくのが私の方法です。その次は九月の「箱根翡翠能楽らいぶ」。この時は笛の松田弘之先生にご一緒していただき、私は謡いながら舞う二人らいぶでした。お客様にも良い感想を頂戴しましたが、何より松田先生が「この詩は素晴しいですね」と仰って、私の能作も評価して下さいました。古典の作品を知り尽した共演者が評価して下さったことは、自分だけの勝手な思い込みではないことの一つの証しでした。

次の機会は、打楽器奏者の加藤訓子(くにこ)さんとのコラボレーションという、能楽らいぶの中でもかなり前衛的な試みの場でした。加藤さんとのコラボレーションは、ホソヤアーティストネットワークの大須賀さんがもう五年も前に発案していたのですが、くにたち市民芸術小ホールが企画作品としてスポンサードして下さり、今年二月にOTODAMA/KOTODAMA公演「音とコトバの宇宙論(コスモロジー)〜花を奉る〜」として実現しました。このコラボレーションの後半に「花を奉る」を提案してみたところ、加藤さんも大変気に入られて、公演名となるような作品を作ることが出来ました。この時、序之舞の代わりに加藤さんが選んだ作品は、ハイウェル・デイヴィス作「パール・グラウンド」という曲です。全編4音からなる和音が少しずつ変化しながらゆっくり刻まれてゆく、墨絵のグラデーションのような曲なのですが、回を重ねて舞う毎に、まるでこの舞のために作られたように感じられて来ました。そしてこの作品の前段には、ワキにあたる役柄として「世界の理を言葉に求めて、詩を作り旅をする者」が登場しました。これは二人のコラボで求める音霊言霊(おとだまことだま)の憑代(よりしろ)として考え出した設定ですが、私の頭の中には詩人和合亮一の存在がありました。このコラボレーションは初演前に再演が決まるという幸運に恵まれました。

 

福島の詩人・和合亮一と

 

再演というのは五月の相馬公演です。これはもともと加藤訓子さんが三井住友海上文化財団派遣コンサートとして受けていた公演でしたが、私の予定に合わせて日程を調整して下さり、また加藤さんも、相馬の皆さんに是非ともこの作品をお届けしたいということで、実現したものです。さて初演時のくにたち公演では冒頭の言葉はこのようなものでした。「これは世界の理を言葉に求めて。詩を作り旅をする者です。この程は高尾の森御岳の森を廻り。この武蔵野に下って参りました。これよりこの所の古き宮を訪ねて。音霊言霊を求めてみようと思います。」そしてこの男は谷保天満宮の神域の森で神秘の体験をするのです。これを相馬公演では地元の地名に変えようと思い、私は和合さんにその旨を伝えました。和合さんが書いて下さったのは次のようなものです。「これは世界の理を言葉に求めて。詩を作り旅をする者です。この程は富岡の夜の森(よのもり)、浪江の請戸の浜を廻り。この相馬の松川浦に下って参りました。これよりこの所の古き宮を訪ねて。音霊言霊を求めてみようと思います。」そして中村神社という、地元の古い宮を教えて下さいました。富岡の夜の森は立入り禁止区域にあり、例年は大勢の人が楽しんでいた満開の桜が、無人の花を狂気のように咲かせていた映像を、私は忘れることが出来ません。また、請戸の浜

は震災直後に原発事故の影響で立入り禁止となったために、救助されずに亡くなった方が大勢いらしたと聞きました。相馬の松川浦は、海水浴や潮干狩りで親しまれていた名所ですが、津波で大きな被害を受け、また地盤沈下により干潟が無くなってしまった場所でした。単に地名が変っただけの話ではなくなりました。それがどのように作用したのかは分りませんが、相馬では大きな拍手と公演後の感謝の言葉を沢山頂戴致しました。

さてそれを受けての六月の北上、慶昌寺での「花まつり能楽らいぶ」です。いつもは能の仲間を語らっての古典的な能楽らいぶ(変な言葉ですね)なのですが、今年は他の能の公演と重なってしまい私一人でしたので、和合亮一さんとのコラボレーションを企画していました。和合さんにお願いした時点ではまだ何も決まっていなかったのですが、相馬公演で和合さんから頂いた言葉を元に、「花を奉る」を能に仕立てるストーリーのようなものが少し見えて来ました。昨年「能にして下さい」との言葉も頂戴しています。時間はあまり無かったのですが、何とか本番二日前に「朗読と謡のための『花を奉る』」という作品を仕上げることが出来ました。これはまだ文字通り朗読と謡のための作品で、まだ能として完成したものではありませんが、今まで何とも掴み難かった能の仕立てに、一応の手掛りを得た形となりました。

まず、ワキの「世界の理を言葉に求めて、詩を作り旅をする者」が登場し、福島の浜通りを廻って来たことを道行に謡い、北上の地まで湯治のためにやって来ます。ここで最初の朗読。和合さんが最近ツィッターに投稿したヘリコプターの詩です。ヘリコプターで南相馬や浪江のあたりを見て、今も震災直後から変わっていない有様を描写しています。次にシテが登場します。福島の文字摺観音近くに暮らしていた女が、幼な子(といっても十才くらい)と共に北上に避難して来て、三年目の春に子どもが別れた父親の元の福島に戻り、ひとり残されて茫然と日々を送っている有様を謡います。二つめの朗読は、別れて暮らす家族のこと。福島では当り前に繰り広げられている日常のドラマ。そしてシテの女が身の上を語るクドキの謡い。「私は新潟阿賀野に生まれ。親を水銀の毒にて失い。長じて福島の飯坂に移り。縁あって子を授かり。暫しの月日を送る。されども親の病を夫に告げざるを責められ。子を連れて文字摺観音の傍らに移り。朝に夕にその大慈悲に縋る。この度の災厄ありし時。観音の導きを夢に見て。我が子の命守らんと。真先駆けてこの地に来り。三度の春を送りしが。この五月のある日に。我が子俄に大人びた面差して我に向かい。これまでの扶育の礼を述べ。されど福島へ帰り父と共に。福島のために働かんと。語る姿も凛々しくて。喜ぶ顔を仮面にして。我が子送りて残りしなり。」「四十半ばのこの身に。老いの心の諸白髪」そして三つめの朗読。名作「福島を生きる」。

今回のらいぶでは、シテとワキの問答を作ることは出来ませんでした。そしてこの後、大きな飛躍があります。ワキと言葉を交したシテの女は、野の花ひと本を詩人から受け取ることにより、「花を奉る」の女に変身するのです。ここで実際に交される言葉はこの先の課題となります。待謡風のワキの上歌「野の花を。一本折りて手渡せば。一本折りて手渡せば。不思議なりとよ彼の女の。姿変じて今までは。弱き女と見えつるが。内より香気湧き出でて。白き衣を身に纏い。花持ちて立つその姿。この世の女とも思われず。この世の女とは思われず。」そして四つめの朗読は、野の花に心慰められる思いを綴った詩。和合さんはこの部分に何を朗読するか最後まで迷っていましたが、結果控え目な印象の美しい優しい言葉が並んで、とても素晴しいものとなりました。これに続いて「花を奉る」となります。序之舞の部分には和合さんの最新詩集『廃炉詩篇』より「馥郁(ふくいく)たる火を」を朗読してもらいました。

公演の後の雰囲気を何と言えば良いのでしょう。いつも「らいぶ」の後にはお客様からの質問を受けながらのお話をするのですが、何しろ重いテーマですのでなかなか質問も出て来ません。でも内容に共感して下さっている様子は伝わって来ます。和合さんと二人の対談で、らいぶの内幕などをお話しさせていただきました。

これから

 

私は、当初この詩を能に仕立てる仕立てを、福島や水俣から離した方が良いのではないかと漠然と考えていました。今でもその気持はありますし、この後、本格的な能作はその方向に向うことも十分に考えられます。しかし例えそうなったとしても、加藤訓子さんと和合亮一さんとの共演によって紡ぎ出されたこの色合いは、新しい作品の深みとなってゆくだろうと思っています。

思いもかけず長い文章になってしまいましたが、自分自身への確認もあり、かなり専門的なことまで含めて綴らせていただきました。新しい能の創作とその可能性について、多くの方にご興味を持っていただけたらと思います。

最後に、加藤訓子さんとの「音とコトバの宇宙論」は八月二十四日に豊橋で再演が決まっています。

参考

「朗読と謡のための『花を奉る』」の謡本は下記にて公開。

https://docs.google.com/file/d/0B9dqCDiaSEbWX1ZUNDJKbE5XX0k/edit?usp=sharing

【中所さんの舞台】

◆青梅アート・ジャム能楽らいぶ「舞の型で遊んでみよう」     7月7日14時、吉川英治記念館(青梅線二俣尾駅徒歩15分)。定員50人(要予約)、参加費3000円。青梅アート・ジャム主催。

《申》042-550-4295中所宜夫能の会。

◆NPO法人三河三座の能楽らいぶ「能とチェロで描く宮沢賢治~『セロ弾きのゴーシュ』より」     7月24日18-20時、ロワジールホテル豊橋30階スカイバンケット「ル・モン」(豊橋駅西口からシャトルバス)。共演はチェロ奏者・杉浦薫さん。前売り5000円、当日5500円でいずれも食事、飲み物、サービス料、消費税込み。

《申》0532-32-3111東愛知新聞社内、NPO法人三河三座、0532-47-6115ロワジールホテル豊橋営業予約課。

http://loisir-toyohashi.com/event/index.html#b

◆第七回吉田城薪能     8月24日18時-20時半、豊橋公園吉田城前本丸広場(豊橋駅東口から市電に乗り、豊橋公園前下車、徒歩5分。雨天の場合は近くの豊城中学体育館)。世界的打楽器奏者・加藤訓子さんとの共演「OTODAMA/KOTODAMA」による「音とコトバの宇宙論(コスモロジー)〜花を奉る(石牟礼道子)〜」。前売り5000円、当日6000円。

《問》0532-32-3111東愛知新聞社内、NPO法人三河三座。

◆    第4回翡翠能 能楽らいぶ 薩摩琵琶との共演のための作品「耳なし芳一」      9月13日、東急ハーヴェストクラブ「箱根翡翠」(箱根登山鉄道強羅駅から送迎バス)。

《問》0460-84-5489箱根翡翠。

◆    緑泉会例会     9月16日13時、喜多六平太記念能楽堂(目黒駅徒歩7分)。「鵺(ぬえ)」を「白頭(しろがしら)」の小書き付きで上演。6000円(学生3000円)。

《問》042-550-4295中所。

◆    相模湖能「井筒」     10月5日14時、神奈川県立相模湖交流センター(中央線相模湖駅徒歩10分)。

【中所宜夫能楽体験塾】 

7月27日14時、8月10日14時、9月21日14時、10月25日18時半、11月17日14時、神楽坂遊楽スタジオ(地下鉄有楽町線江戸川橋駅4番出口から徒歩4分、東西線神楽坂駅神楽坂口から徒歩6分)。扇の持ち方、基本の構えから始め、舞と謡を体験。各回2時間。5回通し1万円、1回3000円。

《申》氏名、住所FAX、連絡先、希望日、白足袋(700円)希望者はサイズも書いて、FAX042-550-4295、またはEメールnakashonobuo@nohnokai.com 中所宜夫能の会。

観世流能楽師・中所宜夫の「能楽雑記帳」

第十四回  世阿弥の修羅能  「兼平」と「知章」について

来たる4月14日、観世九皐会(矢来能楽堂)で「知章(ともあきら)」という曲をいたします。また、先日は緑泉会で「兼平」という曲の地頭を務めました。二曲とも世阿弥作の修羅能ですが、演じられることのまれな曲となっています。

 

世阿弥の修羅能

世阿弥の修羅能(注)といえば「忠度(ただのり)」「屋島」「敦盛」が個人的には最高傑作ですし、「実盛」「頼政」の老武者の曲も人気が高く、親しみ深いものですが、「兼平」となると同じ木曽物である「巴(ともえ)」い人気度でははるかに劣り、「知章」となるとほとんど上演されません。

しかし、この二曲が駄作であるかというと、決してそんなことはありません。先日の兼平も、見所の手応えはまず上々だったように感じました。

 

 

木曽義仲の乳兄弟・兼平

「兼平」は、木曽義仲の乳兄弟、今井四郎兼平の幽霊が後シテとして登場しますが、前段の仕立てに特徴があります。

「兼平」あらすじ

木曾から義仲の弔いをしようと粟津ヶ原へ向かう僧が、琵琶湖東岸の矢橋の浦までやって来て、行き合った柴舟に便船を乞う。難色を示す船頭に、出家を向こう岸に渡せば、死後の彼岸への渡りが容易になることを説いて、僧は湖上の人となり、辺りの名所、特に比叡山や波止土濃(はしどの)の場所を船頭に尋ね、船頭もそれに答えて詳細に語る。ところが対岸の粟津ヶ原に着くと、船頭も柴舟も忽然と消えて、僧だけが一人残されている。その夜弔いをする僧の夢枕に甲冑(かっちゅう)姿の兼平が現れ、昼間の船頭は自らであったことを語り、お経の力で彼岸へ渡してくれるよう願って、粟津ヶ原の合戦の有様を物語る。散々にうち負けて終には主従二騎となり、自害を勧める二人のやりとり、義仲が単騎落ち行く途中、深田のぬかるみに馬を落とし、立往生しているところに流れ矢で落命した有様などを詳細に語り、自分を置いて主君の弔いを頼む。最後に兼平自らの最期の有様を見せて終わる。

主君への忠義と、無私の振舞いから、剛直一途の武者のありようが描かれ、特に終曲は「太刀を咥(くわ)えつつ逆様に落ちて、貫かれ失せにけり。兼平が最期の仕儀、目を驚かす有様なり。目を驚かす有様」の言葉で閉めて、弔いを乞いさえしない姿勢が印象的な曲です。

 

 

南北朝のドラマが潜む

 

また前段の舟のくだりには、私は南北朝期のドラマがそこに潜んでいるような気がしてなりません。比叡山から八王子へ視線を移し、比叡山が王城の丑寅の鬼門を守っていることに言及するには、後醍醐天皇が京を脱出して、比叡山へ赴いたことが前提になっていると思います。ちょっと調べがついていないのですが、波止土濃は新田義貞と関係があったように思うのです。

突然、新田義貞などと名前を挙げると唐突かも知れません。しかしこの『兼平』はそもそも義貞の魂を鎮める曲なのです。木曽義仲も新田義貞も直接に前政権である、平家の六波羅政庁と鎌倉幕府を滅ぼしながら、新政権から排斥されて滅ぼされています。新政権を打ち立てた頼朝とは従兄弟、足利尊氏と新田氏は隣り合う領地で諍(いさか)いも多かったものの、ともに源氏正統の血を誇る同族であったことも共通しています。またともに深田に馬の足を取られて立往生しているところを、流れ矢に当って落命しています。それでは何故義仲ではなく兼平なのでしょうか。

そこには戦いの中、大将の蔭で無私の命を落した多くの忠義の武者達の存在があると思います。

 

 

清盛の孫・知章

 

一方「知章」は、清盛の三男で壇ノ浦の合戦では総大将を勤めた知盛の息子です。後シテではこの知章が、華やかな甲冑姿の若武者として登場しますが、問題はこの曲の前シテです。直面(ひためん:能面を用いず素顔で演じることをこのように言います。演者の顔をそのまま面=おもて=として扱うという意味です)の里人なのですが、これは普通、知章の化身として解釈されています。

「知章」あらすじ:

春の訪れに誘われるように西国より都へ上る僧が、舟で上って行くと、海際に関を設けた浦(須磨の浦)に行き着く。磯辺に上ってみると、新しい卒都婆が立てられて「物故(もっこ)平知章」と書かれている。平家一門の中のどの人だろうと思いつつ供養していると、呼びかける里人があり、知章とは知盛の子息で、如月七日にこの一の谷の合戦で討たれたこと、今日がその日であるから所縁の人が卒都婆を立てたことを語り、ここに行き合った縁で回向してくれるように頼む。里人と僧は二人して懇ろに弔う。その後、僧が知盛の最期はどうであったのかを尋ねると、里人は、知盛が名馬・井上黒(いのうえぐろ)を泳がせて遥か沖合の御座船に逃れたこと、その馬が船に乗せられずに岸へ泳ぎ帰り、主人を慕って別れを惜しんだことを語る。夜になり僧がこのまま弔いを続ける由を述べると、里人は自分も平家一門の者であるからと弔いを頼み、名を尋ねられるのに答えて、「今は何をか裹み井(つつみい)の。水隠(みがく)れて住むあわれ世に。亡き跡の名は。白真弓の」と言葉を残し、須磨の里でもなければ、野山でもなく、海の方へ行くかと見えて、海鳥が波に浮き沈みして姿が見えなくなるように、後姿も見えつ隠れつしながら消えてしまう。

そしてその夜、読経する僧の前に知章の幽霊が現れて、一の谷での最期の有様を物語る。敗戦となり殿(しんがり)を務めた父知盛を、武蔵守知章と監物太郎頼賢の二人で沖へ逃したこと、知盛が御座船で兄宗盛に我が子を犠牲にして生き伸びた悔しさを語ったこと、宗盛も知章を傷み涙を流したことに続き、自らの最期の有様を詳細に仕方噺に語り、その弔いを頼んで終曲となる。

この前シテの里人ですが、名乗りの言葉を見ると「亡き跡の名はわからない」と言っているのにもかかわらず、知章の亡心と一般に解釈されているのに、私は疑問を覚えます。これはむしろ父の知盛の亡心でなければおかしいのではないでしょうか。知章が自分の弔いを頼みに現れたのではなく、父知盛が自分の身代りにこの地で亡くなった、我が子知章の供養を頼んでいるのです。愛馬井上黒の別れの有様を物語るのも、知章が語るのでは何だか焦点がずれていますが、知盛が語るのであれば、一の谷に捨てて来た自らの分身を、二つながらに供養しているのだと解釈できます。

 

 

犠牲者たちの鎮魂

 

南北朝の争乱というのは、「太平記」を読んでみると分かるのですが、本当に戦いに継ぐ戦いで、しかもそこに脈絡が見えないのです。足利尊氏にしてもここぞという一大決戦に何回も敗れ、本当にこの人が後の幕府を建設するのだろうかと思われるほどです。観阿弥はこの騒乱の最中に生を受けて育ち、世阿弥は足利幕府が何とか大名たちをまとめあげて、南北朝を統一するさまを目にしています。ようやく訪れた平和を思うとき、神能の次第でワキが「げに治まれる四方の春」とか「国も治まる」云々とか謡う言葉がなるほど実感となって迫って来ます。そのような時代に世阿弥は、争乱の中で死んだ多くの魂に想いを寄せただろうと思うのです。この人はおそらくその生の若い頃に、神秘体験をしています。空海が室戸で流星を呑み込んだようなことが、世阿弥にもあったはずです。それでなければあのような夢幻能を生み出すことはなかったと思います。空海が「真言」を生み、世界は言葉で出来ていると言ったように、世阿弥は、歌の言葉が鬼神を動かすと言い、「能」を作ったのです。

そのような世阿弥にとって、ようやく訪れた平和を維持するためには、犠牲になった魂を鎮めることがとても大切なことでした。親をかばって討死にした若武者たち、主人のために単騎奮闘する子飼いの家来たち、名のある大将で一時は名を成しながらも敗れ去った者たち、そういう人々の魂を弔う作品を作らずにはいられなかった世阿弥の心を思います。「兼平」と「知章」はまさにそういう作品なのではないでしょうか。二曲とも曲の構成など似ている部分が多く、おそらく同じ頃に作られた作品だと思います。こういう作品を作った上で、さらに洗練を目指して作られた作品が、「忠度」「敦盛」などの最初に挙げた人気曲なのではないでしょうか。もとより私は学者ではないので、資料にあたって制作年代を検討するなどのことは出来ませんが、実演者として曲と向い合った時、このようなことを思うのです。

注:武人がシテになる曲

 

【中所さんの舞台】

多摩らいふ倶楽部「「中所宜夫の能楽よもやま話 能面について」    3月11日10-12時、青流台(五日市線秋川駅北口徒歩5分)。中所さんが能面を見せながら話す。定員20人。参加費2500円。《申》042-526-7777多摩らいふ倶楽部。

【http://www.tamalife.co.jp/02_event/index.html】

◆観世九皐会四月例会    4月14日13時、矢来能楽堂(地下鉄東西線神楽坂駅2番出口=矢来口=徒歩2分)。中所さんによる能「知章」、善竹十郎さんの狂言「文相撲」、観世喜之さんらによる仕舞「雲林院」、長山禮三郎さんの能「海士 赤頭三段之舞」上演。正面指定席6000円、脇・中正面指定席5000円、自由席4000円、学生2000円。《申》042-550-4295またはメール nakashonobuo@nohnokai.com中所宜夫能の会。

http://www.kanze.com/

◆多摩らいふ倶楽部「「中所宜夫の能楽よもやま話 謡について」    4月19日10-12時、青流台(五日市線秋川駅北口徒歩5分)。中所さんが能面を見せながら話す。定員20人。参加費2500円。《申》042-526-7777多摩らいふ倶楽部。

【http://www.tamalife.co.jp/02_event/index.html】

 

観世流能楽師・中所宜夫の「能楽雑記帳」

 

第十三回  「誓願寺」と「老松」

 

 

 

前回「自然居士」と「東岸居士」を取り上げて、観阿弥と世阿弥の能に対する姿勢の違いを書きました。戯曲としての面白さが特徴の観阿弥。宗教的な高揚感の再現を目指す世阿弥。観阿弥の能ではあくまで叙事的な内容であった曲舞を、世阿弥は難解で宗教的な教えや説法を解り易く表現するために用います。

「東岸居士」ではこの曲舞の仕立てだけが呈示されていますが、二曲を比べればやはり圧倒的に「自然居士」の方が面白いのです。そこで世阿弥はそこからもうひと工夫して、今、学者が「複式夢幻能」と呼ぶ形式を生み出したのではないでしょうか。

 

シテ「和泉式部」、ワキ「一遍上人」の「誓願寺」 

 

先日「誓願寺」という曲の演能に参加しました。美しい曲ですが二時間に及ばんとする大曲のうえ、シテが和泉式部であるため、源氏物語や伊勢物語に取材した作品に比して、今となってはさして親しみのある素材ではないということで、あまり演能にかからない曲です。ワキが一遍上人であり、さまざま独自な仕立てがなされていたりするため、私はこの曲は世阿弥の作品だと考えています。

熊野権現の神託を得て宗教的開眼をした一遍が京に上り、誓願寺で「六十萬人決定往生」の御札を配っていると、美しい女人が現われて御札の文言に疑義を挟む。一遍が夢で得た四句の文「六字名号一遍法。十界依正一遍体。万行離念一遍証。人中上々妙好華。」の説明をすると女人は疑いを晴らし、和泉式部の幽霊であることを仄めかして姿を消す。後段では歌舞の菩薩となった和泉式部が現れ、一遍に美しい舞を舞って見せる。

ここで舞われる曲舞の文言は次のようなものです。

「笙歌遥かに聞ゆ、孤雲の上なれや。聖衆来迎す、落日の前とかや。昔在霊山の御名は法華一仏。今西方の弥陀如来。慈眼視衆生現れて、娑婆示現観世音。三世利益同一体。ありがたや我等が為の悲願なり。「若我成仏の、光を受くる世の人の。「我が力には往き難き。御法の御舟の水馴棹。ささでも渡る彼の岸に。到り到りて楽しみを極むる国の道なれや。十悪八邪の迷いの雲も空晴れ。真如の月の西方も。此処を去る事遠からず。唯心の浄土とは。この誓願寺を拝むなり」

 

謡の声と囃子の響きの中に、このような宗教的感興を表現しようというのが、世阿弥の目指すところであり、そういう意図が非常に端的に表現されているのが、この「誓願寺」という曲のように思われます。

 

宗教的感興を求めながら趣きを異にする「老松」

 

やはり世阿弥の作品で、同じ宗教的感興を求めた曲ながら、「老松」は著しく趣きを異にしています。

北野信仰に熱心な梅津某が、筑紫安楽寺へ参れという霊夢を得てやって来ると、庭を掃き清める老人と若者に出会う。飛梅の所在を尋ねると、目前の梅を「紅梅殿」と呼んで崇めている旨に続き、傍らの松を名高い「老松(追い松)」だと教える。梅津某が「なほなほ当社の謂はれ委しく御物語り候へ」と促すのに答えて、老人は社殿の有様に続いて梅と松についての故事を語って聞かせる。

そうこうするうちに夕暮れとなり、若者と老人は「神さびて」消え失せる。その夜松蔭に休む梅津の前に老松の精が老体の神姿で現れ、荘厳な舞を見せる。

「誓願寺」で舞われる舞が「序之舞」であるのに対し、「老松」で舞われるのは「真(神)之序之舞」なのです。どちらもゆったりとした静かな舞ですが、前者は柔らかく優しい趣きで、後者は堅固な荘厳さを持っています。若く美しい女性の舞と神々しい老人の舞です。印象が違ってくるのは当然でしょう。

さてこの「老松」ですが、この曲も「誓願寺」ほどではないにしろ、あまり上演されない曲となっています。和泉式部にしろ北野信仰にしろ、現在は少しく縁遠いものになっているため、どうしても難解な印象を与えてしまいます。そこにまた「老松」については、世阿弥の思惑が重なっていて余計理解しにくいのです。実は、私も長らくこの曲の仕組みが見えていなくて、何ともつかみどころのない曲のように思えていました。しかし気がついてみると、そこに「老松」独自の深みが見えてきました。多少のひとりよがりもあるかと思いますが、少しご説明したいと思います。

 

 

「老松」独自の深み

 

 

先程、極く簡略に「老松」のあらすじを書きました。しかし話の流れとして少し変だと思われませんでしたか。梅津さんが「なおなお当社の謂れを委しく教えて下さい」と言っているのに、老人は見ればわかる周りの情景に続いて、梅と松の中国の故事を引くのみで、当社への謂れや、菅原道真に関する飛梅や老松のことは何も語らないのです。その部分の詞章、少し長いのですが引用します。

ワキ「なほなほ当社の謂れ委しく御物語り候へ。(サシ)シテ「まづ社壇の体を拝み奉れば。北に峨々たる青山あり。地「朧月松閣の中に映じ。南に寂々たる瓊門あり。斜日竹竿の下に透けり。シテ「左に火焔の輪塔あり。地「翠帳紅閨のよそほひ昔を忘れず。右に古寺の旧跡あり。晨鐘夕梵の響き絶うることなし。(クセ)「げにや心なき。草木なりと申せども。かかる浮世の理をば。知るべし知るべし。緒木の中に松梅は。殊に天神の御慈愛にて。紅梅殿も老松も皆末社と現じ給へり。「さればこの二つの木は。我が朝よりもなほ。漢家に徳を顕し。唐の帝の御時は。国に文学盛んなれば。花の色を増し。匂ひ常より勝りたり。文学廃れば匂ひもなく。その色も深からず。さてこそ文を好む木なりけりとて梅をば。好文木とは付けられたれ。さて松を。太夫と云う事は。秦の始皇の御狩の時。天俄かにかき曇り。大雨頻りに降りしかば。帝雨を凌がんと。小松の蔭に寄り給ふ。この松俄かに大木となり。枝を垂れ葉を並べ。木の間透間を塞ぎて。その雨を洩らさざりしかば。帝、太夫と云ふ。爵を贈り給ひしより。松を太夫と申すなり。シテ「かやうに名高き松梅の。地「花も千代までの。行末久に御垣守。守るべし守るべしや。神はここも同じ名の。天満つ空も紅の。花も松も諸共に。神さびて失せにけり。あと神さびて失せにけり」

 

ここで梅に託して文学の栄えを良きこととし、松に託して忠義を称えていることは注目しなければいけません。そこに学識と文芸に秀で、宇多天皇と醍醐天皇に忠義を尽した道真の姿が見えます。平安期の道真の怨霊への怖れは甚しく、その霊鎮めのために北野天満宮が造営されたのですが、室町期には霊験新たかな神として広く信仰を集めていました。世阿弥は怨霊としての道真ではなく、文芸に勝れ、神意に通じた先達としての道真を描きたかった、そこには道真の悲劇は不必要だったのだと思います。今「先達」と書きましたが、私は世阿弥は本当にそのように感じていたのではないかと思うのです。室町幕府の中枢にあって、猿楽の能本作者としての自分を道真に重ね、道を極めることにより本当に歌舞の菩薩、芸能の神たらんとしていたのです。

 

 

道真と世阿弥

 

それにしても‥、と後年の世阿弥を知る私たちは思うのです。「罪なくして配所の月を見」た世阿弥は、まるでそれを予見して道真に自らを仮託していたようでもあります。以前に、世阿弥を流罪とした足利義教を暗殺した嘉吉の変は、赤松満祐を実行者に仕立てて、音阿弥元重が首謀したものかも知れない、というようなことを書きましたが、怨霊になってしまった道真に対して、芸能者としての面目躍如たるものがある、と思うのは少しうがち過ぎでしょうか。さらにここに、宗教者でもなく、為政者でもなく、実業家でもない、私たち芸能者が今という時代に何をするべきなのかを、学ぶことが出来るのではないでしょうか。

 

【中所さんの舞台】

観世流緑泉会例会    12月1日13時、喜多六平太記念能楽堂(目黒駅西口徒歩7分)。中所さんが能「老松」を演ずるほか、大蔵吉次郎さんによる狂言「地蔵舞」、桑田貴志さんによる能「巴」も上演。入場料6000円(学生3000円)。《申》042-550-4295、またはメール nakashonobuo@nohnokai.com中所宜夫能の会。

◆第十五回くにたち学生能楽会「天鼓」    12月8日13時半、一橋大学兼松講堂(国立駅南口徒歩5分)。中所さんが指導する一橋観世会の公演。番外仕舞として津村禮次郎さんが「葵上」を、中所さんが「歌占」を演ずる。無料。《問》080-6353-4698、またはメールhit_kanze@hotmail.co.jp  上結。

◆名古屋観世九皐会新春公演    2013年1月20日13時、名古屋能楽堂(地下鉄鶴舞選浅間町駅、または地下鉄名城線市役所駅下車、名古屋城正門南)。中所さんが「翁」を演ずるほか、大野弘之さんによる狂言「昆布売」、観世喜正さんによる能「望月」も上演。正面指定席5000円、脇正面・中正面自由席4000円、学生自由席2000円、未就学児入場不可。《申》042-550-4295またはメール nakashonobuo@nohnokai.com中所宜夫能の会。

◆OTODAMA/KOTOODAMA~音とコトバの宇宙論(コスモロジー)~   2月2日18時、3日14時、くにたち市民芸術小ホール(南武線矢川駅徒歩10分)。中所さんとパーカッショニスト・加藤訓子さんが共演。全席指定前売り4000円、当日4500円。《申》042-574-1515同ホール。

観世流能楽師・中所宜夫の「能楽雑記帳」 

第十二回 「東岸居士」について

 

 

世阿弥の作品に「東岸居士(とうがんこじ)」という曲があるのですが、今はほとんど演じられません。来月9日に観世九皐会例会で私がシテをいたします「呉服(くれは)」という曲も、やはり世阿弥作ながらあまり演じられない曲です。

世阿弥といえどもそうそう人気曲ばかり作っていたわけではないようですし、後の能楽師たちから絶対の存在であったわけでもないようです。明確な世阿弥作でありながら廃曲となったものもあれば、世阿弥本と現行曲とで全く違った演出になっている曲もあります。もっともこれなどは、その時々に胸に響く演能を工夫してきた先達の成果であり、教条主義にならなかった証拠として考えるべきで、世阿弥に対する尊敬が薄かったなどというつもりはありません。

さてその「東岸居士」の舞囃子で地頭をする機会を得て、少し勉強してみたのですが、この殆ど演じられない曲に、やはり世阿弥の作品としての面白さが見えて来ましたので、この機会に少しまとめてみたいと思います。

傑作「自然居士」

さて「東岸居士」について語る前に、観阿弥作の傑作「自然居士(じねんこじ)」について簡単にお話ししましょう。

「居士」は剃髪せず俗体のまま説法を行う修行者のことで、仏の教えを伝えるために舞を舞ったり謡を歌ったりして修行している者たちのことです。自然居士が雲居寺で7日間の説法修行をしていましたが、小袖を供物にして亡き両親の菩提を弔う女児が現れます。その孝心に感じつつ自然居士が説法をしていると、一団の荒くれ者が女児を連れ去ってしまいます。さては自分の身を人買いに売って供養の形物としたと知った居士は、近江坂本まで追いかけて行き、まさに漕ぎ離れようとする舟を呼び返して、人商人と押し問答の末、ついに女児を取り返して都に連れ帰ります。巧みな場面転換、居士と人商人とのやりとりの面白さ、女児を返す引き換えに居士に舞を要求して次から次へと舞を舞わせるその舞の面白さ、などこの曲は観阿弥の代表作であり、現在でも人気のある文句ない傑作です。

余談ですが私は、この曲の特に場面転換の巧みさは、演劇に携る多くの方々に知っていただきたいと思います。

ほとんど演じられることのない曲

さて、そういう父であり師である人の作品を受けて、世阿弥が書いた作品が「東岸居士」であろうと思います。ところがこの作品は現在ほとんど上演されないのです。まず劇的手法において「自然居士」とは比べものになりません。

遠国から都に上って男(ワキ)が清水で東岸居士と出会い、少し言葉を交した後、その説法としての舞を見聞します。そして以下、中之舞を折込んで、一遍上人の法語を元にした曲舞を舞い、さらに羯鼓からキリの舞となり、その最後には「万法皆一如なる実相の門に入ろうよ」と説法を結んでいます。父の曲と比べてみると、劇的な部分の乏しさは一目瞭然で、ただ曲舞を舞うだけの曲と言っても良いでしょう。

しかし曲中このような言葉があります。ワキ「さてこの橋は如何なる人の架け給ひたる橋にて候ぞ」シテ「これは先師自然居士の。法界無縁の功力を以て。渡し給ひし橋なれば。今またかやうに勧むるなり」。そして一連の問答を挟んで曲舞となります。

父で師の観阿弥に対する世阿弥の言葉

自然居士も東岸居士も実在の人で東岸居士は自然居士の弟子なのです。この「橋」を「曲舞」に置き換えれば、これはそのまま観阿弥に対する世阿弥の言葉となるでしょう。いや曲舞だけではなく一曲全体をそのように考えても良いでしょう。「自然居士」は後に世阿弥が父の舞台を思い出して、「五十過ぎなのに十代の少年のように見えた」と述べている、世阿弥自身が父の代表作のように思っていた曲です。それに対して「自分の作品はこうだ」と創作したものが「東岸居士」であるはずです。

プロットという言葉は西洋の演劇の言葉なのであまり使いたくないのですが、観阿弥がプロットの面白さを売り物にしていたのに対して、世阿弥は自分の作品はプロットではないのだ、と主張しています。それでは何かと言えば「曲舞」なのです。

観阿弥の曲舞は「白髭」にしろ「自然居士」にしろ縁起譚に終始して、甚だ叙事的であるのに対し、「東岸居士」の曲舞は一遍法語をもとに仕立て上げていて、それがそのまま法話となっています。その作調の巧みさもまた際立っています。少し長いのですが、全文を引用します。

 

[次第]地謡「御法の舟の水馴棹。御法の舟の水馴棹。皆彼の岸に至らん。」

[一セイ]シテ「おもしろやこれも胡蝶の夢の中」地「遊び戯れ舞ふとかや。」《中ノ舞》

  [クリ]シテ「鈔に又申さく。あらゆる所の仏法の趣」地「箇々円成の道すぐに、今に絶えせぬ跡とかや。」

  [サシ]シテ「但し正像すでに暮れて、末法に生を受けたり。」地「かるが故に春過ぎ秋来れども、進み難きは出離の道。」シテ「花を惜み月を見ても、起り易きは妄念なり。」地「罪障の山にはいつとなく、煩悩の雲あつうして、仏日の光晴れがたく」 シテ「生死の海にはとこしなへに、」地「無明の波荒くして、真如の月宿らず。

      [クセ]「生を受くるに任せて、苦にくるしみを受け重ね、死に帰るに随つて、冥きより冥きに赴く。六道の巷には、迷はぬ所もなく、生死の枢  (とぼそ)には、宿らぬ住家もなし。生死の転変をば、夢とやいはん。又現とやせん。これら有りといはんとすれば、雲と上り煙と消えて後、其    跡を留むべくもなし。無しといはんとすれば又、恩愛の中、心とゞまつて、腸を断ち、魂を動かさずといふ事なし。彼の芝蘭の契の袂には、骸をば愁嘆の焔に焦がせども、紅蓮大紅蓮の氷をば終に解かす事なし。鴛鴦の衾の下に眼をば、慈悲の涙に潤せども、焦熱大焦熱の焔をば、終にしめす事なし。かかる拙き身を持ちて、」シテ「殺生偸盗邪婬は、」地「身に於て作る罪なり。妄語綺語悪口両舌は、口にて作る罪なり。貪欲嗔恚愚痴は又、心に於て絶えせず。御法の船の水馴棹、皆彼の岸に至らん。」

 

如何ですか。難しいですね。これって現代語訳しても本当のところは、難しいと思います。しかしその難しい内容を謡の節づけによって、初めての人にも伝わるように聞かせる、それが世阿弥の目論んだところです。元になっている一遍法語と比較してみれば、そこで世阿弥が施した工夫がより明確になりますが、いささか専門的になりすぎますので、ここではやめておきます。

さてこの「東岸居士」ですが、世阿弥が自らの道を見出したにもかかわらず、おそらく当時も不評だったのではないかと思います。今と違い、おそらく内容は見る人に伝わったと思います。しかし、やはり如何にしても劇的感興に乏しい。「自然居士」と本曲でどちらが見たいかと言えば、やはり父観阿弥の作品でしょう。おそらく世阿弥は、自ら確認した曲舞の可能性をテコにして、そこからさらにもうひと工夫を加えて「複式夢幻能」の形式を編み出したのではないでしょうか。

 

【中所さんの舞台】

◆英治忌能楽らいぶ「『私本太平記』より高時曼荼羅」     9月7日16-17時、吉川英治記念館(青梅線二俣尾駅徒歩15分)。新田義貞が攻め寄せ、焼け落ちる炎の中で薙刀を手に舞を舞う、鎌倉幕府最後の執権・北条高時の最後の姿を描く。6月に初演した書き下しの新作能を、英治忌に再演する。1人4役のひとり能楽らいぶ。無料(入館料500円必要)。

《問》0428-76-1575同記念館。

◆観世九皐会例会    9月9日13時、矢来能楽堂(地下鉄東西線神楽坂駅2番出口=矢来口=徒歩2分)。中所さんによる「呉服(くれは)」と、桑田貴志さんによる「天鼓」上演。正面指定席6000円、脇・中正面指定席5000円、自由席4000円、学生2000円。

《申》03-3268-7311観世九皐会事務局。

http://www.kanze.com/

◆第3回翡翠能・能楽らいぶ「松虫」と「花奉」     9月21日15時、ホテルハーヴェスト「箱根翡翠」(箱根登山鉄道強羅駅から送迎バス)。笛の松田弘之さんを迎えての二人らいぷ。古典「松虫」の一部と、石牟礼道子さんの詩を元に創作した新作「花奉」を上演。

《申》0460-84-5489箱根翡翠

 

観世流能楽師・中所宜夫の「能楽雑記帳」

 

第十一回 能を創作するということ

 

前回「太平記と能(1)」としましたので、当然「太平記と能(2)」となるはずですが、ちょっとこの大上段なタイトルが重荷となってしまい、先を書き進めなくなってしまいました。そこで今回は少し視点を変えて、最近の私の状況をお話ししつつ、「能を創作するということ」――しかしこれも前回同様大上段なタイトルですね――について書いてみたいと思います。

舞台が続く日々

 

 

4月28日に観世九皐会春季別会で「山姥(やまんば) 白頭」という曲を国立能楽堂でいたしました。タイトルの示すように、私の所属する観世九皐会が春と秋に行っている特別の会で、シテをつとめさせていただいたわけです。「山姥」という曲は世阿弥作と思ってほぼ間違いない名曲です。山に住む鬼女と世間一般では考えられている山姥が、世阿弥の手にかかると、自然界を象徴する精霊のような存在として私たちの目の前に立ち現れて来るのです。この日の舞台は一応私がここまで能の道を歩んできた、ひとつの記念碑と言って良いような舞台になったと思います。

「山姥」前シテ (撮影:芝田裕之)

「山姥」後シテ (撮影:芝田裕之)

その大きな舞台が終ってホッとする間も無く、愛知県豊橋市のNPO法人三河三座の方から、七月二十八日(土)に新作能による薪能を豊橋市の吉田城本丸広場で上演してもらえないかとのお電話を頂戴しました。私はこれまで、宮澤賢治の童話「ひかりの素足」を元にした能「光の素足」に続き、中原中也による「中也」、丸山薫による「鶴の葬式」と、詩人の作品をもとにした新しい能の創作をして来ました。このうち「鶴の葬式」は豊橋市にある愛知大学の権田浩美先生からの依頼で、学内の学会発表の場にまだ極々試作品という形で発表させてもらったものでした。この時の舞台をご覧下さった三河三座役員の方がいらしたらしく、豊橋市ゆかりの詩人・丸山薫の作品を是非能にして欲しいと言うことなのです。しかし丸山の作品はまだ一曲の能としてお見せ出来る段階にありませんし、期日も迫っているということで、役員の方ともお話しして、既に四回の能公演の実績がある「光の素足」をさせて頂くことになりました。

新作能「光の素足」

ところでこの「光の素足」には、シテの光の素足がツレの一郎少年に世のことわりを語り聞かせる舞の場面があり、その部分が「雨ニモ負ケズの曲舞(くせまい)」という形式になっています。世阿弥作の能「山姥」でも、シテの山姥はツレの遊女の奏でる「山姥の曲舞」を引き継ぐようにして、自然の摂理を語り舞いますが、私はこの「山姥の曲舞」に習って「雨ニモ負ケズの曲舞」を創作したのです。

曲舞と言う芸能は、観阿弥や世阿弥の頃には盛んに行われていたもので、物語を語る手法として大変優れていたもののようです。観阿弥はこの曲舞を猿楽に導入し、劇空間としての奥行を深めることに成功しました。現行の能の曲の中でも「山姥」「百萬」「歌占」などの曲舞は、曲舞本来の原型を留めていると言われ、共通の形式を備えています。また、信長が愛好したといわれる幸若舞は、後にこの曲舞から派生したもののようです。

新しい能を創作するわけ

 

新作能は最近ではいろいろな方が取り組むようになりましたが、少し前までは伝統を破るものとして白眼視されていました。今でも正当な評価を得ているとは言えないと思いますが、そのような中で私が新しい能を創作する理由は大きく分けて二つあります。

一つは現代の多くの人が能を鑑賞する上で最も大きな障害となっている言葉の問題を解決すること、もう一つは実際に創作することによって、古典の作品に対する理解が深まって行くことです。

後の方の理由については、そうして気がついた様々のことを、既にこの能楽雑記帳に書かせていただいていますが、今回はその最初の理由の部分について少し書いてみようと思います。

「雨ニモ負ケズの曲舞」を創作した時に確信したのは、言葉に施されている能の音楽、これを謡(うたい)とか謡曲(ようきょく)とか言いますが、この音楽は日本語の持つ音律の根幹の部分から生まれていて、結果、言葉の持つ意味を表現する、非常に有効な手段となっているということです。しかし古典作品を鑑賞する時は、語られる言葉が室町時代の言葉ですから、聞いても意味が分らないのです。しかし逆に言えば、七百年前の言葉を使いながら今なお生きた舞台芸術として能が機能し得ているのは、謡の持つ音楽構造が日本語の音律と非常によく合っているからだとも言えると思います。歌曲やジャズやロックはやはりそれを生んだ国の言葉のものであり、その導入の頃に日本語で歌われたものを聞くと、いかにも不自然な印象を受けます。最近になって和製のポップスが多くの人に訴える力を持って来たのは、そのための言葉がようやく出来てきた、というよりも現代日本語というものが、欧米語と同じ外套を纏(まと)うことに慣れてきた、その外套を纏っていることさえ意識されなくなってきたためだと思います。

「雨ニモ負ケズ」を謡った時、やはり日本語本来の音律は謡曲の中にあるなぁと実感したのですが、それがその後の詩人へのアプローチへと繋って行きました。しかし問題も沢山あります。現代日本語には西欧語の音律が混ざっていて、それが謡曲とは馴染みにくいのです。謡曲の構造の中にその音律を表現する技術を導入するということも、もちろん検討されるかとは思いますが、私はむしろ、現代日本語が忘れかけている本来の姿を、謡で謡うことによって再発見して行きたいと考えています。

二つの「能楽らいぶ」

 

今月、私には二つの能楽らいぶが予定されていました。一つは三日に行われた岩手県北上市の「慶昌寺花まつり能楽らいぶ」、もう一つは十七日に青梅市の吉川英治記念館で行われる「青梅アートジャム能楽らいぶ」です。

青ジャム能楽らいぶでは、吉川英治没後五十年ということで吉川英治に捧げる能楽らいぶ、「高時曼荼羅 〜私本太平記より〜」をいたします。前回にも書かせていただきましたが、「私本太平記」の中でも特に大きな影響を受けた「高時曼荼羅」の一章を、全く一曲の能に仕立てて演じてみようというのです。現在その創作の最中ですが、やってみるとなかなか面白い作業で、吉川英治という稀代の語り部なればこその一曲になると思います。

既に終ってしまった「花まつり能楽らいぶ」ですが、それについてのまとめをツイッターに投稿しましたので、それをもとに最後にまとめてみたいと思います。

毎年六月の第一日曜におこなっている慶昌寺の花まつり能楽らいぶですが、今年は福島県在住の詩人の和合亮一さんをゲストにお招きしました。昨年はその状況にも関わらず、ご住職のたっての希望で「光の素足」をさせて頂きましたが、その流れを受けての今年の企画となりました。

和合さんは以前からお付き合いがあり、震災後のツイッターでの投稿もいち早く見届け、その無事を喜んだのでした。震災後の状況の中で、能にしか出来ない事を自分なりに探って行く中、「詩の礫」を能に作る事は当然考えられる選択肢の一つでした。しかし多くの音楽関係の方がアプローチしてゆく中、私はなかなかそれを満足出来る形で作品化する事が出来ませんでした。今回はらいぶという場を得る事が出来ましたので、取りあえずそれをコラボという形で実現しようと思いました。

コラボと言っても、お互いが筋書きに合わせて交互に演じるようなものではなく、謡いと朗読が即興的に同時進行してゆくものです。和合さんも最初はこのやり方に戸惑われたようですし、言葉の意味を捉えようとした多くのお客様も同様の困惑があったようです。しかし能は音節に依らずもっと直接に意味を届けようとする部分があり、その波動なり気の流れなりを、和合さんの朗読と交歓することで、他の方法では不可能な何かを表現出来るのではないかと思いました。

このコラボを全体の第一部として、第二部には古典の曲から「殺生石」を、そして第三部に、これも新作の「花奉(はなたてまつる)」という能舞をいたしました。

第一部の前半は「詩の礫」の中でも最も危機感に富む最初の五日間からの言葉を中心に、私が再構成した謡いに、同時期のツイートからランダムに選んだ断片を和合さんが朗読しました。

後半は前日の2日の朝に和合さんがフェイスブックに投稿した詩と、安冨歩さんの「生きるための論語」から「怒りを遷さず」の部分のモチーフとを、組合せて曲にしたものに、和合さんが同じように朗読を重ねました。最初に泣かされました、というお客様も多く、概ね意図したことは実現したと思います。

和合さんとのコラボのもう一つの狙いは、和合さんに能の感覚を体感してもらいたかったことです。狙いと言うと少々傲慢に聞こえるかも知れませんが、終わった後のトークの中でお話しされているのを聞いていて、ああ自分はこういうことを知って欲しかったのだ、と後から分かった感じです。

第二部は「殺生石」です。かねてからこの曲に出てくる玉藻の前が、放射性物質の比喩のように感じていたのですが、萩尾望都さんの「なのはな」に納められたプルート夫人などを見るにつけ、最近に至って益々その感を強くしていました。インド・中国から日本に渡り、王朝に災いをもたらして来た悪魂が、鳥羽院の御代に寵愛を集めた玉藻の前です。もとより架空のお話しだと思います。陰陽師の安倍泰成によって朝廷から追い払われた悪魂は、那須野の原に飛び来って、近づく生き物を殺してしまう殺生石となって恐れられていました。これを玄翁道人が供養して鎮める、というのが能のお話です。鳥羽院から玄翁まで二百年位です。以前は、二百年なんてなるほど昔話ならではの随分大袈裟な時間だ、と思っていましたが、セシウムなどの放射性物質だと思えば、そんな簡単に鎮められるわけはないなあ、と思ってしまいます。

第三部の「花奉」は、ツイッターで紹介されていた石牟礼道子さんの詩「花を奉る」を、ほぼ原詩のまま節付けしたものですが、まるで夢幻能の後場のような仕上がりになりました。「今」とにかく「花」を捧げて祈るという行為の中に、生きる希望を見出そうとする作品で、これをもとに一曲の能が創作出来るのではないかと模索中の作品です。お客様からも高く評価されて、是非これを能にして下さい、との言葉を頂きました。思えば「雨ニモ負ケズ」の曲舞を発表した時にも、同様の言葉を頂戴しました。まだどのようなストーリーの中でこの詩が謡われるのかが見えてこないので、能になるのはどれ程先か分りませんが、この先何回かこの作品を演じていく中から、きっとひとつの能になってゆく、その方向が見えてくるのではないかと思います。

「山姥」を四月に終え、次の九月の「呉服(くれは)」の公演まで、暫くゆっくり出来るかと思っていたのですが、二つの能楽らいぶに向けての創作に、急な「光の素足」の公演に向けての諸事が重なり、思いもかけない忙しさに追われているこの一カ月です。

 

 

【中所さんの舞台】

◆青梅アートジャム能楽らいぶ 吉川英治へ捧ぐ「高時曼荼羅~『私本太平記』より~」   6月17日14-16時、吉川英治記念館(青梅線二俣尾駅徒歩15分)。新田義貞が攻め寄せ、焼け落ちる炎の中で薙刀を手に舞を舞う、鎌倉幕府最後の執権・北条高時の最後の姿を描く。書き下しの新作能の初演ひとりらいぶ。定員50人(要予約)。3000円。青梅アートジャム主催。

《申》042-550-4295中所宜夫能の会。

◆第6回吉田城薪能 「宮沢賢治を現代能に」    7月28日18時半、吉田城本丸広場(豊橋駅東口から市電に乗り、豊橋公園前下車、徒歩5分。雨天の場合は近くの豊城中学体育館)。東日本大震災犠牲者への鎮魂を込めた創作能「光の素足」のほか、舞囃子「山姥」、狂言語り「童話『ひかりの素足』より」も。チケット3800円(小中高大学生1000円)はチケットぴあ(電話0570-02-9999。Pコード421-632)で発売。吉田城薪能実行委員会主催。

事前講座  7月14日14時、豊橋公園内三の丸会館。中所さんが「私が能を創る理由」の題で話す。入場無料。

《問》090-7438-9779伊藤。

◆観世九皐会例会   9月9日13時、矢来能楽堂(地下鉄東西線神楽坂駅2番出口=矢来口=徒歩2分)。中所さんによる「呉服(くれは)」と、桑田貴志さんによる「天鼓」上演。正面指定席6000円、脇・中正面指定席5000円、自由席4000円、学生2000円。

《申》03-3268-7311観世九皐会事務局。

http://www.kanze.com/

 

観世流能楽師・中所宜夫の「能楽雑記帳」

第十回  太平記と能(1)

「太平記」と吉川英治著「私本太平記」

「太平記」は後醍醐天皇の即位から室町幕府第2代将軍・足利義詮(よしあきら)の死までを記した物語です。室町から江戸時代まで多くの人に親しまれていたようですが、今では読む人は少ないと思います。かく言う私も古典の太平記は読んでいません。「太平記」が読まれなくなった理由は、いろいろあるかと思いますが、やはり戦前の皇国史観からの反動ということが大きいのではないでしょうか。先日大学生に「楠正成を知っていますか?」と尋ねたら、ほとんどの学生が知りませんでした。歴史のひととおりは学んでいて、後醍醐天皇や足利尊氏、新田義貞までは知っていても、太平記最大のヒーローである楠正成は知らないのです。

私自信は小学生の三、四年生の頃に学校の図書館にあった「千早城のまもり」と言う本を読んで、(その小学校は明治六年開校の学校で古い木造の校舎があり、教室の後ろに掲げられた歴史年表には、南北朝のところが吉野時代と表記されていました。昭和四十年代のことです。今から思うとあれにクレームをつける保護者や先生が、いなかったのだろうかと、とても不思議です)。「へー。楠正成ってすごいな」くらいの感想を持っていたのですが、その影響もあってか、中学生になってからだと思うのですが、吉川英治の「私本太平記」を夢中で読んだことがありました。

ところで、今年は吉川英治没後五十年なのだそうです。そこで私が毎年参加している「青梅アートジャム」というイベントで、吉野梅郷にある吉川英治記念館を会場に、吉川英治オマージュをしようということになりました。「宮本武蔵」も「新平家物語」も読んでいない私は、「私本太平記」をテーマにしようと思い、これを読み返してみたのですが、色々の発見があり、とても面白い読書体験をしました。その内容は大きく二点にまとめられます。一つは能について、そしてもう一つはとても私的なことです。

太平記の中に見える能の情景

最初の一点は、能に描かれる情景が太平記の中に見えて来るということです。

もちろん私が読んだのは私本太平記ですから、太平記そのものではありません。しかし英治はどうも能にはあまり詳しくなかった(終わりの方で観阿弥が出てくるのですが、猿楽ではなくて田楽の役者になっています)ようですし、大筋においては古典に忠実に書いているとのことですから、そこに能の情景が見えるということは、返って古典の太平記の記述を伺わせるのではないでしょうか。日野俊基卿が捕えられて鎌倉に護送される場面で、能の「盛久」の冒頭の道行の景色が重なり、後醍醐が京都を脱出して吉野へ逃げる下りなどは、「國栖(くず)」そのものですし、新田義貞がぬかるみに馬を駆け込んで流れ矢に当って亡くなるなど、「巴」「兼平」に描かれる木曽義仲の最期とそっくりです。これはもともとの太平記が平家物語の影響を受けているのですから、何の不思議もないのかも知れません。しかしやはり何かひっかかるものがあります。ひょっとすると能の作者が書きたかったのは、平家物語ではなく太平記ではなかったのでしょうか。

去年の震災を受けて、この状況を何とか能で表現出来ないだろうか、原発を呪鎮する能というものは出来ないだろうか、などと考えて、少し試みてみるのですが、どれも底の浅いものでしかなくて、とても「能」と呼べるレベルまで上って行きそうにありません。テーマを直接述べたてても、そろそろ倦んできたメッセージソングのようなものにしかならないのです。そこでそれを古典の中に隠喩として表現するという方法が考えられるのですが、能作者の方法も同様だったのではないかと思うのです。

例えば私は、恋しい男の形見の舞の装束を身に纏って舞を舞ったのは、世阿弥の母親かも知れないと思っているのですが、「富士太鼓」や「梅枝」が直接それを扱っているのに対し、「井筒」や「松風」はそれぞれの歌物語に仮託して、舞を舞うことによる昇華を見事に描いています。

さらに舞台での表現というものは、しばしば体制批判の性格を帯びます。それは演技者というものが持っている特徴の一つなのではないでしょうか。近代の演劇は革命運動と密接に関係していたようですし、歌舞伎もお上の目を憚って、例えば忠臣蔵などは正に太平記の世界に仮託して、その裁きの不公正さを訴えたのではなかったでしょうか。しかし、体制の側からすれば、たかが芝居のことと放置出来ないこともあるでしょう。近代においてさえしばしば弾圧を受けたようですから、江戸時代の歌舞伎の大胆さはむしろ特筆すべきものかも知れませんし、逆に江戸時代はそれだけ成熟していたと考えることも出来るかも知れません。しかし南北朝の統一後まもない室町初期の時代に、そのような成熟は望むべくもありません。当事者あるいはその子供や孫が健在でいる物語を、舞台で表現すると言うことは、悪く描くにしろ良く描くにしろ差し障りが生じます。本当に言いたいことをそのまま言ってしまっては、一個人の命だけではなくその属する共同体の存続にも影響したでしょう。

世阿弥の素晴らしいところは、古典(「当時」の古典即ち源氏物語や平家物語、伊勢物語など)の世界に仮託することが、単に当局の目を眩ますだけではなく、より高い芸術性と普遍性を獲得したことです。「本節正しき能」と世阿弥が言う時、その意味は従来の解釈と少し異るように私には思えます。そういう目で能の曲目を見直してみると、今まで武家の式楽というとりすました顔の下から、思わぬ生々しい実相が浮び出てくるかも知れません。

能楽師への道への曲がり角

さてもう一点の私的なこととは、私自身が「私本太平記」から受けていた影響です。

先にこの本を読んだのが中学生の頃だと思う、と書きました。私の読書体験において、中学二年生後半から始まる太宰治への傾倒は大変なもので、その時に受けた負のイメージ、ネガティブな精神性は、本当に最近まで私を支配していたように思います。そしていくつかの歴史小説を読んだのはその前でした。海音寺潮五郎の「平将門」を読んでいて、その表紙に女性の裸体の挿絵があって、同級生の女子にからかわれたのは二年生でしたから、「私本太平記」を読んでいたのはその前になります。

今回の読み直しで、最初は以前に読んだ記憶になかなか確証が得られなかったのですが、途中でこれは間違いないと思った場面があります。新田義貞に攻められての執権・北条高時の最期を描いた「高時曼荼羅」の一節です。奇矯・驕慢な高時が最期に臨んで、炎に焼かれながら舞を舞い自刃する、その有様の何とカッコ良いことでしょうか。子供の時にこれを読んで、やはり同じようにこの高時の滅びの美しさに大変な魅力を感じたのです。それをまざまざと思い出しました。

さらに読み進めて行くと、楠正成の最期がやはり美しい。稀代の名文家が筆を惜しまずに書き尽しています。新しい勢力と古い勢力が覇を競う時、滅びの姿の美しさというものに、中学の頃の私はどうしようもなく惹かれてしまったのです。

この直後に太宰にのめり込む、その下地がこの「私本太平記」で作られていました。その頃は自分が能楽師になるなど思ってもいませんでしたが、その道への大きな曲がり角を、この本を夢中で読んでいたあの時、私は確かに曲がったに違いありません。

【中所さんの舞台】

◆観世九皐(きゅうこう)会春季別会「山姥 白頭」   4月28日12時45分、国立能楽堂(地下鉄大江戸線国立競技場駅駅A4出口徒歩5分)。中所さんがシテを務める。全席指定S正面席1万円、A脇正面席、B中正面席とGB席6000円、学生席(B席)4000円。

《申》042-550-4295、nakashonobuo@nohnokai.com中所宜夫能の会、03-3268-7311観世九皐会(http://www.kanze.com/)。

◆北上・慶昌寺 花まつり能楽らいぶ「殺生石」  6月3日15時、慶昌寺(岩手県北上市和賀街煤孫18-208)。出演は中所宜夫さん、鈴木啓吾さん、中所真吾さん。能上演前に、福島県在住の詩人で、東日本大震災後に積極的に発信している和合亮一さんと中所宜夫さんによるコラボレーションがある。参加費500円。

《申》0197-73-5042慶昌寺(http://keishoji.e-tera.jp/)。

◆青梅アートジャム能楽らいぶ 吉川英治へ捧ぐ「高時曼荼羅~『私本太平記』より~」   6月17日14時、吉川英治記念館(青梅線二俣尾駅徒歩15分)。3000円。

《申》042-550-4295中所宜夫能の会。

 

 

 

観世流能楽師・中所宜夫の「能楽雑記帳」

 

第九回 「芦刈」について・急の段

 

前回は日下左衛門が仁徳天皇の徳を語り伝える家の末裔ではなかったか、というお話をしました。大家の乳母として身を立てた女は、最初は男のあまりの様変りにそれとは気付かなかったのですが、仁徳天皇の難波の宮がどうのこうのという話になって、男が左衛門であったのだと知ります。女があまりに立派になったのを恥じた男は、彼方へ逃げ隠れてしまいますが、女は自ら出向き言葉を交します。

 

能「芦刈」より (平成18年観世九皐会例会で)

 

 

見事な古典の言葉

 

(女)「いかに古人。わらはこそこれまで参りて候へ。行末かけし玉の緒の。結ぶ契りのかひありて。今は世にある様なれば。遥々尋ね参りたるに。何処へ忍ばせ給ふらん。とくとく出でさせ給ひ候へ」

(男)「これはただ夢にぞあるらん現ならば。よその人目も如何ならんと。思ひ沈めるばかりなり」

(女)「かくは思へど若しはまた。人の心は白露の。おき別れにしきぬぎぬの。妻や重ねし難波人」

(男)「芦火焚く屋はすすたれて。おのが妻衣(つまぎぬ)それならで。又は誰にか馴衣(なれごろも)。(一首)君なくてあしかりけりと思ふにぞ。いとど難波の浦は住み憂き」

(女)「(返歌)あしからじ。善からんとてぞ別れにし。何か難波の浦は住み憂き」

 

これをおよそ分かりやすく置き代えてみますと、次のような感じでしょうか。

 

(女)「いかにいにしえ人(現代語訳不能です)。私、ここまで参りました。三年前にはどうしようもなくて、将来を思って、約束を交した、そのお陰で今は世に出ることが出来て、こうして遠路遥々尋ねて来ましたのに、どうして隠れたりなさるのです。早くお出ましになって下さい」

(男)「これはきっと夢に違いない。現実のことだとしたら、他の人達はどう思っているのだろう」と男は思い沈むばかりで、返事をしない。

(女)「そんなことはないとは思いますが、人の心というものは分らないものですもの。ひょっとして離れている間に新しい奥様をお持ちになっていらっしゃるのでしょうか」

(男)「この土地にいて、あい変らず貧乏していて、難波だからこそ芦があるので、芦で焚きものをして煤けている、そんな男に新しい女房なんているものか。あなたがいないから何もかも悪いことばかりで、せめて芦刈をしているのだと、どうか思って下さい。住吉などと言いますが、何てこの難波の浦は住み憂きところなのでしょう」

(女)「悪いだなんて。そんなことはありません。善かれと思って別れたのではなかったでしょうか。どうして難波の浦が住み憂きことがあるでしょうか」

 

どうですか。古典の言葉というのは見事でしょう。そして歌を取り交すことの面白さ・・・。

残念なことに、その面白さを、今の私たちはそのままでは味わうことが出来なくなってしまいました。

 

生活の中にあった和歌

 

当時の教養ある人たちにとって、和歌は基本中の基本で、四書五経や漢詩などは、それこそ限られたインテリやエリートたちに限られていたかもしれませんが、歌が詠めなければ恋も出来なかったのです。それが現代では和歌の機能はさっぱり働かなくなってしまいました。いったい何時頃からなのでしょう。おそらくは戦国時代、命のやりとりが日常的になり、言葉遊びなどする心の余裕が失われ、和歌も生活空間に居場所をなくしたのでしょう。万葉の昔からの長い時代が終り、その死に際に俳諧が生まれて今に至るまで別な花を咲かせているのです。そういう意味で、短歌もまた俳諧からの逆輸入をへて、和歌とは大きく姿を変えてしまいました。

 

しかし文芸の持つ力と言うものは、人間が言葉を使うものである限り、決して無くなるものではありません。そして今、私は「人間が言葉を使うものである限り」と書きましたが、これは本当は違うのです。「初めに言葉ありき」なのです。人間が人間たり得るのは「言葉」を持っているか否かにかかっているのです。言葉は道具ではなく、世界と人間を生み出す源泉に他なりません。

ですから現代には現代の文芸があって、それは昔より劣っているとか優れているとか、論じることにあまり意味はないと思います。ただやはり古典の中で展開される和歌の贈答の妙を、十分に感取し得ないということが、返す返すも残念なのです。

 

林望さん著『謹訳 源氏物語

 

ところでリンボウ先生こと作家の林望さんは、私がまだ学生で、能楽師の道を歩み始めたころ、一緒に能のお稽古をしていたのですが、現在『謹訳 源氏物語』で源氏物語の現代語訳に挑戦中です。既にお読みになっていらっしゃる方も多いと思いますが、まだ読んでいらっしゃらない方には是非手にとってみて下さい。かつてなされた現代語訳のどれよりも、物語の世界が胸に迫ってきます。そのひとつは、歌の贈答についてその意味を分り易く解き明かしていることが大きな原因のように思います。恥ずかしながら、これまで訳されたものを読んでも歌の意味が分らず、途中で挫折していたのを、訳のせいにして、原文に当たっては当然のことながら難し過ぎて分からず、それでも我慢して何とか明石帰りを果たすあたりまでしか、この物語を知らずにいたのですが、『謹訳』は文体も読みやすく、気品も失わず、意味もしっかり掘り下げているということで、「若菜」以下の各巻の面白さ素晴しさを始めて教えてもらいました。

 

終幕へ

 

「芦刈」は二人の出会いの後、言葉の力、和歌の徳を称える曲舞(くせまい)となります。

「山の高さといい海の深さといい、そもそも男女の恋物語はそれに及ぶのだけれど、とりわき難波の海と山は、これまで詠まれた歌の多さと素性の良さにかけて、比類のないものだ」

と始まり、古今集の仮名序で「歌の父母」と称えられている仁徳天皇の歌「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の歌などを引いて、歌の徳を掲げ、そして二人が出会ったのも歌のお陰であり、また昔しっかり言葉を取り交わしたその結縁によってのことなのだと結んでいます。

 

最後に左衛門は、喜びの舞を威儀を正して舞い、女と二人で連れ立って帰って行きます。

 

人気の芸能「曲舞」

 

曲舞というのは、観阿弥・世阿弥の頃に大変人気があった芸能で、百萬という名手がいたと記録されています。私は太古から伝えられた語り部の技術や系譜がこの曲舞につながっているのではないかと考えていますが、その曲舞を観阿弥は能(当時は猿楽)の中に取り込むことによって、より深い劇的空間を獲得したのだと言われています。曲舞はその後も盛んに行われ、やがてその一派から起った幸若舞は織田信長の篤い庇護を受けます。有名な「人間五十年」の一節は幸若舞の『敦盛』の中のものです。あまり知られていませんが、幸若舞は能とともに江戸時代には武家の式楽となり、明治維新まで伝承されていました。その頃には「舞」という名前に反して、語りの力を重視した語り物となっていたそうです。しかしその伝承は維新によって武士が消失したために、明治の中頃には途絶えてしまいました。語り部の伝統を今に伝えているかも知れないものは、能だけになってしまいました。

 

【中所さんの舞台】

◆ 第6回能の旅人 A公演   3月20日13時、名古屋市千種文化小劇場(ちくさ座=名古屋市営地下鉄桜通線吹上駅7番出口)。  中所 宜夫さんの仕舞「鵺(ぬえ)」、   観世喜正さんほかで能「安達原」など。全席指定5000円(学生2000円)。

   《申》03-3266-1020 のうのう事務所  。 【 http://www.kanze.com/ かんぜこむ】

◆ 能楽らいぶat宗建寺 「春や昔の春ならぬ 〜再び巡り来た春に昔を思う。『熊野  ゆや』をめぐって〜」   4月14日14時半-16時 、宗建寺(青梅線青梅駅徒歩5分)。中所さんのほか、能楽笛方森田流の槻宅聡さん、宗建寺住職・棚橋正道さんが出演。定員80人。いす席あり。3500円。

《申》   042-526-7777   多摩らいふ倶楽部事務局  ( http://www.tamalife.co.jp)。

◆観世九皐(きゅうこう)会春季別会「山姥 白頭」   4月28日12時45分、国立能楽堂(地下鉄大江戸線国立競技場駅駅A4出口徒歩5分)。中所さんがシテを務める。全席指定S正面席1万円、A脇正面席、B中正面席とGB席6000円、学生席(B席)4000円。

《申》042-550-4295、nakashonobuo@nohnokai.com中所宜夫能の会、03-3268-7311観世九皐会(http://www.kanze.com/

 

観世流能楽師・中所宜夫の「能楽雑記帳」

 

第八回 「芦刈」について・破の段

 

 

年末掲載の予定を私の勝手で1回お休みしてしまいましたが、新年を契機に気持ちを改めて、また書いてゆきたいと思います。よろしくおつきあい下さい。

 

 

語り部について

 

私はウインドウ・ショッピングというものをほとんどしないのですが、本屋だけは例外で、少し知的な仕立てのレイアウトなどされると、思わず読書可能限界を超えて、数冊の本を買い込んでしまいます。

中秋の頃、バルガス・リョサ著「密林の語り部」という本を買い、先月頃から読み始めました。作者は一昨年のノーベル文学賞受賞者で、来日講演の折にもこの作品について多くを語ったのだそうです。ペルーの大学で民俗学を学ぶユダヤ人の青年が、アマゾンの未開部族の語り部となるお話を、作者と思われる「私」が一人称で語り、その語り部の語りを挟みつつ、最後にその語り部が自らのことを語ると言う構成で、無文字文化における語り部のひとつの姿を伝えています。現代文明とは決して相容れない部族の価値観、独特の世界観などが、脈絡のない語りによって呈示され、私たちの価値観の相対性が見事に描かれています。

 

口承の語り部の姿を描いたものとしてこれまで印象にあったのは、萩尾望都著「レッド」に出てくるもので、今詳しくは覚えていないのですが、こちらの語り部は、宇宙のある惑星に集団を形成して、星の運行に支配されながら、年月を送って行く人類のお話だったように記憶しています。集団で音楽を奏でつつ朗唱してゆく姿が、私が思い描いていた古代の語り部と重なっていたのです。

 

どちらの語り部も「異形」のものとして、一般社会から疎外された存在であることが興味深い点です。こういう語り部という存在は、無文字社会の中にあっては非常に重要な存在で、おそらく少し文明が高度になって来ると、必ず現れるのではないかと思うのです。果して日本でも「古事記」の内容を伝承して来た、稗田阿礼という人が語り部のようなものではなかったかと思われます。共同体の正当性を保証する神話の口承は、おそらく膨大な分量を個人または数人の語り部によって語り継いで来たのだと思います。

 

「芦刈  芦売りの男」  平成18年 九皐会例会で演ずる中所さん

 

 

さて「芦刈」のシテ日下左衛門(くさかのさえもん)は、少し大袈裟かも知れませんが、そういう語り部の系譜を継ぐ人であるように、私には思われるのです。主人の乳母を伴って浜辺の市にやって来た従者の前に、件の男はやって来ます。

最初は難波の浦の風光明媚を愛でていたかと思うと、「難波なる。見つとは言わじかかる身に。我だに知らぬ面忘れ。立ち舞う市のなかなかに。隠れ所はあるものを」と思わせ振りなことを口にします。この言葉には下敷になっている和歌があるのだそうで、「君が名も我が名も立てじ難波なるみつとも言うな逢いきとも言わじ」(古今集・読み人知らず)というものです。この和歌を踏まえてのこの部分の意味もまた考えてみたいと思いますが、今の語り部云々とは直接関係がありません。

問題は、自分の身の上をさんざん嘆き続けたのちのワキとの問答の言葉です。「色々な物を売っているけれど、難波の芦を売っているのは、なかなか面白いことです」「そうですね。このあたりでは売る者も買う者も、当たり前のようにしていますが、さすがに都の人は『難波の芦』と歌に詠まれているのをご存知ですね。私も昔は、難波津にあった古い都の住人で、その関係の家の末裔ですが、この枯れ芦と同じようにすっかりおちぶれてしまいました」

さらにすこし後の部分で、「有名なミツの浜というのはどこですか」「忝(かたじけな)くもミツの浜はあれなのですよ」「どうして忝いなどと言うのですか」「おや何ということか。それなら何故ミツの浜と言うのでしょうか。忝くも仁徳天皇がこの難波の浦に皇居を建てられたので、おん津と書いて御津(みつ)の浜と言うのです。」「なるほど面白い謂(いわ)れです。皇居だったから御津の浜ですね。」と続き、最後の一連の言葉は原文でどうぞ。

「波濤海辺(はとうかいへん)」の大宮なれば。漁村に燈す篝火までも。禁裏雲居の御火かと見えて。上、雲上の月卿より。下、万民の民間までも。ありがたかりし恵みぞかし」

 

 

仁徳天皇について

 

 

どうでしょうか。この男が仁徳天皇に寄せる思いが伝わって来ませんでしょうか。私は同世代の中では珍しく、子供の頃に「古事記」の物語などに親しんだので、仁徳天皇が山に登って民の竃(かまど)の煙を見るお話などから、聖王としての仁徳に親しんでいます。戦後の歴史しか学ばない人はうっかりすると、あんな巨大な墳墓を作らせる王様は民を搾取する専制君主に違いない、などと思うのではないでしょうか。それにしてもこの芦刈では、歌枕の御津の浜は知っていても、それが皇居だった故のこととは皆が分らなくなってしまっているその時に、日下左衛門は昔を懐しんでその有様を目前のように伝えています。

 

ところでこの「昔」はどの位昔かと言いますと、仁徳は4世紀末から5世紀初めの人で、芦刈の時代は乳母の習慣が武士階級のものであり、京に仕える主人がいることを思えば、能が創作された室町時代からそれほど遡ることはない、即ち14世紀頃のことですから、仁徳の紀年に多少の問題があるとしても、相当古い、千年昔のことと思っても良いのです。その家に伝えられた伝承というものは、今の私たちが想像するより遥かに永く伝えられて行くようです。現に今でも奈良の旧家などでは、正史と異る伝承を伝えるところがあり、これを一概に後世の創作と退けることは出来ないと思います。そしてその伝承の間に、言葉は磨かれて調子の良い語り口というものが出来上っていくと思うのです。日下左衛門は物売りの口上、すなわち語り口が巧みで評判を取っていたことを思い出せば、そこに伝えられて来た語りの継承というものが感じられないでしょうか。

 

私は、かつて「芦刈」のシテを致しました時に、この人は仁徳朝の栄華に重要な役割を果した人の末裔であり、そのありさまを今に語り伝える役を代々担って来た家の人なのだと、自分なりに思い定めて演じて見たのです。

 

ツレの乳母の女は、三年の間にすっかり様変りしてしまった左衛門に、物売りをしている間は気がつかなかったけれど、仁徳天皇の難波の宮がどうのこうのと言う話になれば、かつて自分がよく聞いていた話なので、それが左衛門だと気付くのです。

 

さて、次回は二人の再会です。

 

【中所さんの舞台】

◆能楽らいぶ 能と薩摩琵琶 「平家物語より 〜滅びと弔い〜」   1月28日14時、横浜市港南区民文化センターひまわりの郷ホール(京浜急行・横浜市営地下鉄上大岡駅)。中所さんのほか、観世流能楽師・遠藤喜久さん、薩摩琵琶錦心流中谷派の荒井姿水さんが出演。前売2500円、当日3000円。未就学児は入場できない。《申》045-848-0800同ホール(http://www.himawari-sato.com/modules/news2/article.php?storyid=101)

◆若竹能復活特別公演「能で綴る平家物語」第一日目「平家台頭」   2月18日16時、矢来能楽堂(地下鉄東西線神楽坂駅矢来口徒歩2分)。能「俊寛」を演ずる。解説は元NHKアナウンサー・葛西聖司さん。正面指定席5000円、脇・中正面指定席4000円、自由席4000円、学生自由席2000円。《申・問》042-550-4295中所宜夫能の会。

◆九皐会春季別会「山姥 白頭」   4月28日13時、国立能楽堂(地下鉄大江戸線国立競技場駅駅A4出口徒歩5分)。

《問》03-3268-7311観世九皐会(http://www.kanze.com/

観世流能楽師・中所宜夫の「能楽雑記帳」

第七回 「芦刈」について・序の段

 

「芦刈」と言う曲があります。平家物語や源氏物語などの出典を持たない曲です。この曲がなかなかに気になる曲なのです。私は平成18(2006)年5月に観世九皐会(きゅうこうかい)の例会でシテをいたしました。その時にいくつか気づいたこともあったのですが、その後もいろいろ思いついたことがあり、この場をお借りしてまとめてみたいと思います。

別れた夫婦が再会する物語

 

これは別れた夫婦が再会する物語です。そしてまず取り上げたいのは、この夫婦が別れるきっかけについてです。そこにある事件が隠されているのです。いや隠されていると思うのは今の私たちの感覚で、昔の人はきっとすぐ分かったに違いありません。しかし、私はずっと気がつかずにいたのです。能楽関係者の方には、何だお前はそんなこともそれまで分からずにいたのか、と言われそうですが…。

冒頭、舞台にはツレの女に従ってワキの従者が登場します。「この人は私の仕える方の若君の乳母なのですが、今一度故郷を訪ねたいとのことなので、摂津の日下の里までお供して参ります。」ということで、難波の浦の程近く、日下の里へやって来ます。そして女とかつて夫婦であった日下佐衛門(くさかのさえもん)の行方を尋ねます。しかし男は既にこの地には居ず、行方知れずとのこと。乳母の女は「色々約束した事もあるので、暫く此処に逗留して行方を探して見ます」と言い、従者は逗留の慰めに何か面白い事はないかと、土地の人に尋ねます。「そうですね。色々面白い事は沢山ありますが、市場へ行ってごらんなさい。一人芦を売っている男がいるのですが、この男の口上が面白いのです」…と。ここまでがシテ登場前の序段で、いよいよシテの登場となります。

さてもうお分かりのように、この後、登場してくる芦売の男が女の訪ねる日下佐衛門なのですが、この夫婦の過去のドラマをちょっと想像してみたいのです。

日下の里の日下佐衛門ですから、男は土地の支配者、開拓者、あるいはその一族の者であり、女はその妻だったわけです。この二人は大変仲睦まじく暮らしていましたが、ある事件がきっかけで互いの気持ちがすれ違うようになり、暫くは離れて過ごした方が良い、という事になりました。とりあえずは三年の月日をおいてみよう。三年経ってもお互いに恋しく思うならば、またこの里に戻って来よう。そう言い交わして別れたのです。さてこの二人を分かつ事件とは何でしょうか?

二人を分かった事件とは

 

ついこの間まで、この二人を分かったのは貧乏だと思っていました。確かにこの後、芦売として登場する男は貧乏しています。しかしこの人は貧乏に沈澱してしまう人ではありません。芦を売るのに、その口上が面白いと評判を取るほど、機知に富み、芸能にも優れています。だいたい三年後の再会を約束するほど惹かれ合っている二人です。ただ貧乏なだけならば何も別れる事もありません。この場合、愛する家族のために男が出稼ぎに出るというのでもなく、故郷を離れたのは女の方なのです。

二人を分かったのは、二人の間に生まれた赤子の死です。どうでしょうか?皆様はおわかりでしたでしょうか?乳母は教育係でもあるのでしょうが、やはり一番重要なのは母乳を与えることでしょう。そのように思い至れば、「芦刈」で描かれる夫婦の再会がより鮮明に生き生きと感じられてきます。

深い悲しみ、苦しみ

 

 

当時、乳幼児の死は珍しい事ではなかったでしょうが、だからと言って当事者にとっては簡単に受け入れられる事ではなかったはずです。ましてこの女は授乳期を過ぎて3年しても、乳母という教育係として丁重なもてなしを受けている、非常に聡明な人です。自分がその悲しみに絡め取られて何も出来ない状態でいる事に、何とも言えないもどかしさも感じていたことでしょう。

赤子を失った母親の最大の悲しみは、乳が出るという事ではないでしょうか。先日私は「松風」のシテをしましたが、死んでしまった恋しい人の形見の立烏帽子と狩衣を手に取って「形見こそ今は徒なれ、これなくは忘るる暇もありなん」とつくづく見込み、それでも沸き上がる思いに形見を抱き締めて泣き伏し、遂には形見を身にまとって狂乱の舞を舞う、そこまでいかなければ流れない悲しみというものを、ありありと感じる事となりました。まして赤子を失った母親は否応なしに乳が出て来るのです。その悲しみ、苦しみは想像に余ります。

そしてそれを身近に見ている男というのも、愛していればこそ耐え難く苦しいものではなかったでしょうか。乳母の話も男が持って来たのかもしれません。

こういう切実な二人だからこそ、この芦刈の話はしっくり来るのです。

「乳母」という存在が身近であった時代、このような悲劇は多くの人が容易に想像出来たのだと思います。しかし現代では、かつて私がそうであったように、稼ぎのために別れた二人のうち、男は芦売に身を落とし、女は大家の乳母に収まるという、出来る女と生活力のない男のお話としてとらえてしまいかねません。赤子の死を挟んでどうしようもなく苦悩していた夫婦の有り様と比べると、如何にも平和呆けの現代人のちょっと間延びした解釈ではないでしょうか。

話は代わりますが、今NHKの大河ドラマ「江」で描かれている春日局もそういう女性の一人のはずです。どうも描き型が余りに現代風で類型的になってしまっていて、いかに母親としての江の存在に焦点を当てているにしろ、結果、奥行きを感じさせないものになってしまっています。二人とも私の好きな女優さんなだけに、とても物足りないのです。

さて「芦刈」ですが、気になるのはこればかりではないのです。次回もこの曲におつきあい下さい。

【中所さんの舞台】

◆能楽らいぶ 能と薩摩琵琶 「平家物語より 〜滅びと弔い〜」   1月28日(土)14時、横浜市港南区民文化センターひまわりの郷ホール(京浜急行・横浜市営地下鉄上大岡駅)。中所さんのほか、観世流能楽師・遠藤喜久さん、薩摩琵琶錦心流中谷派の荒井姿水さんが出演。前売2500円、当日3000円。未就学児は入場できない。《申》045-848-0800同ホール(http://www.himawari-sato.com/modules/news2/article.php?storyid=101)

◆若竹能「俊寛」  2012年2月18日16時、矢来能楽堂(地下鉄東西線神楽坂駅矢来口徒歩2分)。《問》042-550-4295中所宜夫能の会。

◆九皐会春季別会「山姥 白頭」   2012年4月28日13時、国立能楽堂(地下鉄大江戸線国立競技場駅駅A4出口徒歩5分)。

《問》03-3268-7311観世九皐会(http://www.kanze.com/


観世流能楽師・中所宜夫の「能楽雑記帳」

第六回 歯医者さんで

 

私の体型の話です。太ったとか痩せたではなく・・・。

昔、自分の舞台写真で座っているところを横から撮ったものを見ていたら、背中から後頭部までが真っ直ぐで、その真っ直ぐさが異様なのに気がついたことがあります。肩から首へと続く部分に少し内側に窪む段差があって、後頭部は後ろへ出張っている人が多いと思うのですが、私はその部分が真っ直ぐなのですね。それが個性だと言ってしまえばそれまでですが、少なくともギリシャ彫刻のようには美しくない。魁偉(かいい)な、と言うほど大柄ではありませんが、細身?のわりに何となくずんぐりしています。それが衣紋(えもん)掛けのように張った肩から来る印象かと思っていたのですが、やはりこの背面の真っ直ぐさも一因になっていると思います。

それがひょっとすると歯の噛み合わせから来ているかも知れないと、先日、歯医者さんから伺ったお話を聞いて考えています。

 

大切な噛み合わせ

 

前々から噛み合わせというものが大切だということは、何となく了解していました。そして歯ぎしりが脳や身体にかなりなダメージを与えるということも。それで数年前から就寝時には上の歯にマウスピースをはめて寝ているのですが、このマウスピースが時とともに見事に破壊されていくので、確かにそれだけの力がかかっていることは明らかです。

歯科医のT先生によれば、例えばピーナツを手の力で潰すことを考えてみたら、歯にどのくらいの力がかかるかを想像できると思うのですが、その衝撃が歯のすぐ上にある脳に直接伝わってゆき、それがどのくらいの影響を身体に与えているかということについては、最近までほとんど返り見られていませんでした。噛み合わせが上手くいっている場合は、それでもその衝撃は上顎(あご)全体に分散されて、それほどのこともないのですが、悪い場合には衝撃は集中されて大きく脳を揺らすことになります。T先生がそこに注目し、様々な身体の変調の原因になっていると言い始められた頃は、学会などではほとんど無視されていたようです。

肩凝りの原因は噛み合わせ?

 

さて私の噛み合わせですが、これが悲惨なことに奥歯の一点でしか合っていないのです。マウスピースも奥歯の部分が激しく摩耗してゆき、ついには割れてしまいます。たまに忘れて眠ってしまった時など、夜中に奥歯を噛み締める感触に目覚めてしまったり、朝起きると歯の座りがユルイ感じで口がスッキリしないこともあります。虫歯の治療も終わり、歯周病もないのに熱いものを食べると歯にしみることがあるのですが、これも歯ぎしりのせいだと考えられています。

そしてさらに先日の診察では面白いことを伺いました。噛み合せた歯が横に動く時に、これを感知するセンサーが歯についているのですが、そのセンサーは犬歯に62個あるのに対し、奥歯には一つしかないのだそうです。噛んだ時に犬歯が合っていれば62のセンサーがこれを調整して衝撃を柔らげることが出来るのですが、奥歯しか合わない私の場合その衝撃は62倍とまではいかなくとも、数倍にはなるとのことで、眠っている間に取り除かれるべきストレスが、首や肩の筋肉の緊張によってうまく除去されて行かないのだそうです。

そう言われて見れば、肩凝り、特に首の根本の凝りは宿痾(しゅくあ)なのですが・・・。

 

後背部直線の原因は歯軋り?

 

そういうお話を伺ってふと考えてみると、私の後背部直線は子供の頃からの日々の歯軋りによる首の緊張によって形作られたのではないかと思うのです。人間誰しも身体に特徴を持っていますが、その特徴の原因がわかるということはあまりないのではないでしょうか。今回はうって変わって全く能に関係ないことなのですが、自分の身体とか姿勢などにそれなりに興味がないと出てこない話でした。それにこの噛み合わせのことは、もっと大勢の方に知っていただきたいと思いましたので、書いてみました。

 

注) 文中のT先生は、国立市東の壱番館デンタルオフィス院長の武内久幸先生のことです(http://www.ichibankan-do.com/

 

【中所さんの舞台】

◆若竹能「俊寛」  2012年2月18日16時、矢来能楽堂(地下鉄東西線神楽坂駅矢来口徒歩2分)。《問》042-550-4295中所宜夫能の会。

◆九皐会春季別会「山姥 白頭」   2012年4月28日13時、国立能楽堂(地下鉄大江戸線国立競技場駅駅A4出口徒歩5分)。

《問》03-3268-7311観世九皐会(http://www.kanze.com/

 

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