観世流能楽師・中所宜夫の「能楽雑記帳」

 

 

第四回 「天鼓」に見る人間ドラマ  急の段

 

さて、3回にわたって書いてきました「天鼓」のお話もいよいよ最終回です。

少し遡りますが、室町幕府6代将軍・足利義教(よしのり)誕生前の状況について、もう一度考えてみましょう。4代将軍・義持は大御所として難しい政局を何とかきりもりし、観世座の当主である世阿弥は天下に名人と慕われつつ、社会的にも重きをなしています。おそらく多くの有力者が世阿弥のもとに集っていたのではないでしょうか。しかし、世阿弥自身は政治向きに野心があるわけではなく、ただただ一座の運営において時勢を見失わないように心を配っていたと思われます。そんな世阿弥にとって最も気掛りなことは、次の将軍が決まっていないことでした。義持は父・義満に習い、早い段階で息子の義量(よしかず)に将軍職を譲ったのですが、この5代将軍は在位2年であっけなく亡くなってしまいます。以後、義持の亡くなる1428年まで3年間は将軍空位のままだったのです。

この間に世阿弥は一座の世代交代を図ります。既に観世太夫は長男・元雅に譲っていましたが、さらに伝書中でも哲学的考察に優れた「花鏡」を相伝し、重要な舞台を任せ、一方で甥で養子の元重を青蓮院門跡・義円(後の義教)のもとに送り込みます。あくまでも私の想像ですが、義持の後継者候補の中、この義円はそれまでに何かの行き掛かりがあり、世阿弥とあまり折り合いがよろしくなかったのではないでしょうか。もしこの義円が次の将軍となった時、一座の行く末は大変心もとない、そこで元重を押さえとして、観世座本流から切り離して、しかし、近江申(さる)楽や田楽などの他の芸能の競争相手に対しては、大和申楽の優位が失われないようにと心を配ったのです。

佐渡に流された世阿弥

はたして義持没後に、候補3人の中から籤(くじ)引きで選ばれたのは義円その人でした。ここに6代将軍義教が誕生します。義教は元重を贔屓(ひいき)とし、世阿弥と元雅の本家の一座は急速に退嬰(たいえい)に向かいます。

2年後に世阿弥次男の元能(もとよし)は「世子六十以後申楽談義」に世阿弥の芸談をまとめて出家遁世。さらに2年後の1432年8月1日、伊勢安濃津で元雅客死、さらにその2年後に世阿弥は義教によって佐渡配流されます。以後、世阿弥の消息は娘婿の金春禅竹に宛てた手紙が数通あるのみです。

ところで亡くなった元雅には当時5歳程の男子があり、この人が後に越智観世座を興して、音阿弥元重の一座とともに幾つかの催しに名前を連ねているのです。この三世十郎太夫を育て、芸の指導をしたのはどうやら元能らしいのです。そればかりではなく、越智観世座には多くの世阿弥の伝書が伝えられていたようなのです。世阿弥と元雅の一座の消滅後、貴重な伝書や能本をまとめて三世十郎太夫に伝えるにあたっては、金春禅竹の協力もあったようです。

さて能「天鼓」に戻りましょう。鈴木啓吾君によれば、「自家伝抄」という能本の作者を記録した伝書に、「世阿弥作としながらも金春家の能として世阿弥より遣わされた分のうちに一括されている」という記述があるのだそうです。これは、音阿弥元重から続く観世宗家の中で、「天鼓」は世阿弥作だがもともと金春で上演されていたものを他の曲とともに観世に譲り受けた、と伝えられていたのだと理解出来ると思います。

父親の嘆きを読み解く

私は鈴木君に習い、「天鼓」元能作説をとります。「天鼓」に描かれているのは、天才的な太鼓の演奏者である子供を理不尽に殺されてしまった父親の嘆きであり、供養されて喜ぶその少年の幽霊です。元能は父親の嘆きの中に、元雅を失った世阿弥の嘆きの言葉をそっと、挿し入れています。天鼓の父、王伯は世阿弥であり、天鼓は元雅なのです。だとすれば天鼓から鼓を奪い、命令に従わなかった天鼓を殺した後漢の帝は足利義教、ということになります。

そういう目で「天鼓」冒頭の下りを読み直して、ふと思ったことがあります。普通「あの人の演奏が凄い」と言うことになればその演奏家を招くものです。これは皇帝のような権力者でもそうでしょう。ところがこの帝は鼓にしか興味がありません。演奏者のほうはさっさと殺してしまって、楽器だけ召し上げて、いざ宮廷の楽師に演奏させてみたら全然イケていない、ということでしょう。この不自然さに今まで気づきませんでした。つまり、この鼓は何かの比喩である可能性が高いのです。

私はそれを「伝書」なのではないかと思います。世阿弥から元重に直接下された伝書はありません。義教は自らの贔屓とする元重が世阿弥から伝書を授かっていないことに非常に立腹し、それが直接ではないにしろ佐渡配流へつながっているらしいのです。元より元雅の急死にはきな臭いものがあります。伝書を取り上げて元雅を殺し、世阿弥を流罪にする、そのことに対して「天鼓」が書かれたのです。

さらにもうひとつの場面がいっそう際だってきます。それは前段のクライマックスです。王伯が強要されて仕方なく鼓を打つと、一撃たちまちにして妙音が響き渡り、「君も哀れと思し召して。龍顔に御涙を浮かめ給ふぞ有難き」と帝は涙を流すのです。「天鼓」に帝は言葉だけで登場しません。登場しませんが、その存在は確かにあります。そして演能の際、鼓を据えつけた羯鼓台(かっこだい)の作り物、即ち天鼓が舞台正面に置かれます。前シテ王伯はその羯鼓台に向かい撥(ばち)を振り上げます。もし王宮にその場が設えられたとしたら、帝はちょうど見所(能舞台では客席をこのように呼びます)正面奥の貴賓席にいることになるでしょう。もし足利将軍がその能を見ていればそこには間違いなく将軍が座っているのです。この構図はまさに元雅の死に義教が関与していたことを全体で語っているのではないでしょうか。

1441年6月24日、義教は赤松満祐の屋敷に招かれ、観能中に暗殺されます。私が小説家だったら、その時の演目は「天鼓」で前シテの王伯を出家した元能、そして後シテの天鼓を元雅遺児の14、5歳の少年に演じさせます。「○○の暗号」みたいですね。

あるいは、この曲は元能が元雅の遺児である三世十郎太夫が越智観世座を立ちあげた折に、旗揚げのはなむけとして創作したのかも知れません。観世十郎が東大寺八幡宮社前で元服祝賀能を舞ったのは1447年です。越智観世座の曲を金春禅竹が舞っていただろうと考えることは、これまでの経緯を見れば十分考えられるでしょう。その曲を音阿弥元重が舞ったのは1465年で、これが「天鼓」上演記録の初出です。

67歳元重の様々な思い

「天鼓」をめぐる人間ドラマもいよいよ最終ステージです。

時は1465年(寛正6年)3月9日。院前にての申楽上演。シテは観世元重。曲目は「天鼓」。「院前にての」と言うのが実は私にはわからないのですが、上皇の前での上演なのか、それとも8代将軍・足利義政の前での上演なのか、しかしいずれにしても将軍義政はその席にいたに違いありません。このあたり本当はきっちり資料にあたらなければならないところですが、そのあたりはご勘弁下さい。ご存じの方がいらっしゃればご教示いただきたくお願い申し上げます。

時に元重67歳。名人の聞こえ高く、一座の繁栄は盛んで、将軍義政は思うにまかせない政治に倦み、東山に自らの美意識を満足させる文化テーマパークを建設して、申楽を盛んに催しています。将軍義政は政治的にはとにかく優柔不断でどうしようもない男ですが、こと芸術に関しては確かな審美眼と高い意識を備えた一流のプロデューサーでした。元重は義教という難しい時代を乗り越えて、その文化爛熟の中心に腰を据えています。

今「天鼓」の舞台に臨む元重が、この曲の謂われを知らないなどとは考えられません。申楽の一座にとって、嵐の時代は去り、今は繁栄を謳歌しています。元重の胸中には様々な思いが去来していることでしょう。

しかしこの繁栄は虚飾に満ちたものでした。都の繁栄の陰、地方では大小様々ないざこざが各所に巻き起り、世情は騒然としてきています。この演能の2年後には、700年の都を火の海と化す応仁の乱が始まります。私たちが最近まで安穏と楽しんでいた繁栄を思わずにはいられません。

 

【中所さんの舞台】

◆東日本大震災復興支援企画 第2回イーハトーブプロジェクト in 京都 能楽一人らいぶ「光の素足」  9月4日18時、 法然院本堂(阪急四条河原町駅からバス、南田町下車)。宮沢賢治の童話「ひかりの素足」をもとに、その後日譚という趣向で中所さんが創作した現代能を上演。主催者の浜垣誠司さんと中所さんの対談も。2000円(被災地への義援金とする)。

◆緑泉会例会 能「通小町」  9月19日13時、喜多六平太記念能楽堂(目黒駅西口徒歩7分)。6000円( 学生 3000円)。

◆名古屋観世九皐(きゅうこう)会 能「松風」  10月1日13時、名古屋能楽堂(名古屋市営地下鉄鶴舞線浅間町駅徒歩12分)。5000円(学生2000円)。

《問》 042-550-4295 中所宜夫能の会。

 

 

 

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