観世流能楽師・中所宜夫の「能楽雑記帳」

第七回 「芦刈」について・序の段

 

「芦刈」と言う曲があります。平家物語や源氏物語などの出典を持たない曲です。この曲がなかなかに気になる曲なのです。私は平成18(2006)年5月に観世九皐会(きゅうこうかい)の例会でシテをいたしました。その時にいくつか気づいたこともあったのですが、その後もいろいろ思いついたことがあり、この場をお借りしてまとめてみたいと思います。

別れた夫婦が再会する物語

 

これは別れた夫婦が再会する物語です。そしてまず取り上げたいのは、この夫婦が別れるきっかけについてです。そこにある事件が隠されているのです。いや隠されていると思うのは今の私たちの感覚で、昔の人はきっとすぐ分かったに違いありません。しかし、私はずっと気がつかずにいたのです。能楽関係者の方には、何だお前はそんなこともそれまで分からずにいたのか、と言われそうですが…。

冒頭、舞台にはツレの女に従ってワキの従者が登場します。「この人は私の仕える方の若君の乳母なのですが、今一度故郷を訪ねたいとのことなので、摂津の日下の里までお供して参ります。」ということで、難波の浦の程近く、日下の里へやって来ます。そして女とかつて夫婦であった日下佐衛門(くさかのさえもん)の行方を尋ねます。しかし男は既にこの地には居ず、行方知れずとのこと。乳母の女は「色々約束した事もあるので、暫く此処に逗留して行方を探して見ます」と言い、従者は逗留の慰めに何か面白い事はないかと、土地の人に尋ねます。「そうですね。色々面白い事は沢山ありますが、市場へ行ってごらんなさい。一人芦を売っている男がいるのですが、この男の口上が面白いのです」…と。ここまでがシテ登場前の序段で、いよいよシテの登場となります。

さてもうお分かりのように、この後、登場してくる芦売の男が女の訪ねる日下佐衛門なのですが、この夫婦の過去のドラマをちょっと想像してみたいのです。

日下の里の日下佐衛門ですから、男は土地の支配者、開拓者、あるいはその一族の者であり、女はその妻だったわけです。この二人は大変仲睦まじく暮らしていましたが、ある事件がきっかけで互いの気持ちがすれ違うようになり、暫くは離れて過ごした方が良い、という事になりました。とりあえずは三年の月日をおいてみよう。三年経ってもお互いに恋しく思うならば、またこの里に戻って来よう。そう言い交わして別れたのです。さてこの二人を分かつ事件とは何でしょうか?

二人を分かった事件とは

 

ついこの間まで、この二人を分かったのは貧乏だと思っていました。確かにこの後、芦売として登場する男は貧乏しています。しかしこの人は貧乏に沈澱してしまう人ではありません。芦を売るのに、その口上が面白いと評判を取るほど、機知に富み、芸能にも優れています。だいたい三年後の再会を約束するほど惹かれ合っている二人です。ただ貧乏なだけならば何も別れる事もありません。この場合、愛する家族のために男が出稼ぎに出るというのでもなく、故郷を離れたのは女の方なのです。

二人を分かったのは、二人の間に生まれた赤子の死です。どうでしょうか?皆様はおわかりでしたでしょうか?乳母は教育係でもあるのでしょうが、やはり一番重要なのは母乳を与えることでしょう。そのように思い至れば、「芦刈」で描かれる夫婦の再会がより鮮明に生き生きと感じられてきます。

深い悲しみ、苦しみ

 

 

当時、乳幼児の死は珍しい事ではなかったでしょうが、だからと言って当事者にとっては簡単に受け入れられる事ではなかったはずです。ましてこの女は授乳期を過ぎて3年しても、乳母という教育係として丁重なもてなしを受けている、非常に聡明な人です。自分がその悲しみに絡め取られて何も出来ない状態でいる事に、何とも言えないもどかしさも感じていたことでしょう。

赤子を失った母親の最大の悲しみは、乳が出るという事ではないでしょうか。先日私は「松風」のシテをしましたが、死んでしまった恋しい人の形見の立烏帽子と狩衣を手に取って「形見こそ今は徒なれ、これなくは忘るる暇もありなん」とつくづく見込み、それでも沸き上がる思いに形見を抱き締めて泣き伏し、遂には形見を身にまとって狂乱の舞を舞う、そこまでいかなければ流れない悲しみというものを、ありありと感じる事となりました。まして赤子を失った母親は否応なしに乳が出て来るのです。その悲しみ、苦しみは想像に余ります。

そしてそれを身近に見ている男というのも、愛していればこそ耐え難く苦しいものではなかったでしょうか。乳母の話も男が持って来たのかもしれません。

こういう切実な二人だからこそ、この芦刈の話はしっくり来るのです。

「乳母」という存在が身近であった時代、このような悲劇は多くの人が容易に想像出来たのだと思います。しかし現代では、かつて私がそうであったように、稼ぎのために別れた二人のうち、男は芦売に身を落とし、女は大家の乳母に収まるという、出来る女と生活力のない男のお話としてとらえてしまいかねません。赤子の死を挟んでどうしようもなく苦悩していた夫婦の有り様と比べると、如何にも平和呆けの現代人のちょっと間延びした解釈ではないでしょうか。

話は代わりますが、今NHKの大河ドラマ「江」で描かれている春日局もそういう女性の一人のはずです。どうも描き型が余りに現代風で類型的になってしまっていて、いかに母親としての江の存在に焦点を当てているにしろ、結果、奥行きを感じさせないものになってしまっています。二人とも私の好きな女優さんなだけに、とても物足りないのです。

さて「芦刈」ですが、気になるのはこればかりではないのです。次回もこの曲におつきあい下さい。

【中所さんの舞台】

◆能楽らいぶ 能と薩摩琵琶 「平家物語より 〜滅びと弔い〜」   1月28日(土)14時、横浜市港南区民文化センターひまわりの郷ホール(京浜急行・横浜市営地下鉄上大岡駅)。中所さんのほか、観世流能楽師・遠藤喜久さん、薩摩琵琶錦心流中谷派の荒井姿水さんが出演。前売2500円、当日3000円。未就学児は入場できない。《申》045-848-0800同ホール(http://www.himawari-sato.com/modules/news2/article.php?storyid=101)

◆若竹能「俊寛」  2012年2月18日16時、矢来能楽堂(地下鉄東西線神楽坂駅矢来口徒歩2分)。《問》042-550-4295中所宜夫能の会。

◆九皐会春季別会「山姥 白頭」   2012年4月28日13時、国立能楽堂(地下鉄大江戸線国立競技場駅駅A4出口徒歩5分)。

《問》03-3268-7311観世九皐会(http://www.kanze.com/


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