観世流能楽師・中所宜夫の「能楽雑記帳」

 

第九回 「芦刈」について・急の段

 

前回は日下左衛門が仁徳天皇の徳を語り伝える家の末裔ではなかったか、というお話をしました。大家の乳母として身を立てた女は、最初は男のあまりの様変りにそれとは気付かなかったのですが、仁徳天皇の難波の宮がどうのこうのという話になって、男が左衛門であったのだと知ります。女があまりに立派になったのを恥じた男は、彼方へ逃げ隠れてしまいますが、女は自ら出向き言葉を交します。

 

能「芦刈」より (平成18年観世九皐会例会で)

 

 

見事な古典の言葉

 

(女)「いかに古人。わらはこそこれまで参りて候へ。行末かけし玉の緒の。結ぶ契りのかひありて。今は世にある様なれば。遥々尋ね参りたるに。何処へ忍ばせ給ふらん。とくとく出でさせ給ひ候へ」

(男)「これはただ夢にぞあるらん現ならば。よその人目も如何ならんと。思ひ沈めるばかりなり」

(女)「かくは思へど若しはまた。人の心は白露の。おき別れにしきぬぎぬの。妻や重ねし難波人」

(男)「芦火焚く屋はすすたれて。おのが妻衣(つまぎぬ)それならで。又は誰にか馴衣(なれごろも)。(一首)君なくてあしかりけりと思ふにぞ。いとど難波の浦は住み憂き」

(女)「(返歌)あしからじ。善からんとてぞ別れにし。何か難波の浦は住み憂き」

 

これをおよそ分かりやすく置き代えてみますと、次のような感じでしょうか。

 

(女)「いかにいにしえ人(現代語訳不能です)。私、ここまで参りました。三年前にはどうしようもなくて、将来を思って、約束を交した、そのお陰で今は世に出ることが出来て、こうして遠路遥々尋ねて来ましたのに、どうして隠れたりなさるのです。早くお出ましになって下さい」

(男)「これはきっと夢に違いない。現実のことだとしたら、他の人達はどう思っているのだろう」と男は思い沈むばかりで、返事をしない。

(女)「そんなことはないとは思いますが、人の心というものは分らないものですもの。ひょっとして離れている間に新しい奥様をお持ちになっていらっしゃるのでしょうか」

(男)「この土地にいて、あい変らず貧乏していて、難波だからこそ芦があるので、芦で焚きものをして煤けている、そんな男に新しい女房なんているものか。あなたがいないから何もかも悪いことばかりで、せめて芦刈をしているのだと、どうか思って下さい。住吉などと言いますが、何てこの難波の浦は住み憂きところなのでしょう」

(女)「悪いだなんて。そんなことはありません。善かれと思って別れたのではなかったでしょうか。どうして難波の浦が住み憂きことがあるでしょうか」

 

どうですか。古典の言葉というのは見事でしょう。そして歌を取り交すことの面白さ・・・。

残念なことに、その面白さを、今の私たちはそのままでは味わうことが出来なくなってしまいました。

 

生活の中にあった和歌

 

当時の教養ある人たちにとって、和歌は基本中の基本で、四書五経や漢詩などは、それこそ限られたインテリやエリートたちに限られていたかもしれませんが、歌が詠めなければ恋も出来なかったのです。それが現代では和歌の機能はさっぱり働かなくなってしまいました。いったい何時頃からなのでしょう。おそらくは戦国時代、命のやりとりが日常的になり、言葉遊びなどする心の余裕が失われ、和歌も生活空間に居場所をなくしたのでしょう。万葉の昔からの長い時代が終り、その死に際に俳諧が生まれて今に至るまで別な花を咲かせているのです。そういう意味で、短歌もまた俳諧からの逆輸入をへて、和歌とは大きく姿を変えてしまいました。

 

しかし文芸の持つ力と言うものは、人間が言葉を使うものである限り、決して無くなるものではありません。そして今、私は「人間が言葉を使うものである限り」と書きましたが、これは本当は違うのです。「初めに言葉ありき」なのです。人間が人間たり得るのは「言葉」を持っているか否かにかかっているのです。言葉は道具ではなく、世界と人間を生み出す源泉に他なりません。

ですから現代には現代の文芸があって、それは昔より劣っているとか優れているとか、論じることにあまり意味はないと思います。ただやはり古典の中で展開される和歌の贈答の妙を、十分に感取し得ないということが、返す返すも残念なのです。

 

林望さん著『謹訳 源氏物語

 

ところでリンボウ先生こと作家の林望さんは、私がまだ学生で、能楽師の道を歩み始めたころ、一緒に能のお稽古をしていたのですが、現在『謹訳 源氏物語』で源氏物語の現代語訳に挑戦中です。既にお読みになっていらっしゃる方も多いと思いますが、まだ読んでいらっしゃらない方には是非手にとってみて下さい。かつてなされた現代語訳のどれよりも、物語の世界が胸に迫ってきます。そのひとつは、歌の贈答についてその意味を分り易く解き明かしていることが大きな原因のように思います。恥ずかしながら、これまで訳されたものを読んでも歌の意味が分らず、途中で挫折していたのを、訳のせいにして、原文に当たっては当然のことながら難し過ぎて分からず、それでも我慢して何とか明石帰りを果たすあたりまでしか、この物語を知らずにいたのですが、『謹訳』は文体も読みやすく、気品も失わず、意味もしっかり掘り下げているということで、「若菜」以下の各巻の面白さ素晴しさを始めて教えてもらいました。

 

終幕へ

 

「芦刈」は二人の出会いの後、言葉の力、和歌の徳を称える曲舞(くせまい)となります。

「山の高さといい海の深さといい、そもそも男女の恋物語はそれに及ぶのだけれど、とりわき難波の海と山は、これまで詠まれた歌の多さと素性の良さにかけて、比類のないものだ」

と始まり、古今集の仮名序で「歌の父母」と称えられている仁徳天皇の歌「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の歌などを引いて、歌の徳を掲げ、そして二人が出会ったのも歌のお陰であり、また昔しっかり言葉を取り交わしたその結縁によってのことなのだと結んでいます。

 

最後に左衛門は、喜びの舞を威儀を正して舞い、女と二人で連れ立って帰って行きます。

 

人気の芸能「曲舞」

 

曲舞というのは、観阿弥・世阿弥の頃に大変人気があった芸能で、百萬という名手がいたと記録されています。私は太古から伝えられた語り部の技術や系譜がこの曲舞につながっているのではないかと考えていますが、その曲舞を観阿弥は能(当時は猿楽)の中に取り込むことによって、より深い劇的空間を獲得したのだと言われています。曲舞はその後も盛んに行われ、やがてその一派から起った幸若舞は織田信長の篤い庇護を受けます。有名な「人間五十年」の一節は幸若舞の『敦盛』の中のものです。あまり知られていませんが、幸若舞は能とともに江戸時代には武家の式楽となり、明治維新まで伝承されていました。その頃には「舞」という名前に反して、語りの力を重視した語り物となっていたそうです。しかしその伝承は維新によって武士が消失したために、明治の中頃には途絶えてしまいました。語り部の伝統を今に伝えているかも知れないものは、能だけになってしまいました。

 

【中所さんの舞台】

◆ 第6回能の旅人 A公演   3月20日13時、名古屋市千種文化小劇場(ちくさ座=名古屋市営地下鉄桜通線吹上駅7番出口)。  中所 宜夫さんの仕舞「鵺(ぬえ)」、   観世喜正さんほかで能「安達原」など。全席指定5000円(学生2000円)。

   《申》03-3266-1020 のうのう事務所  。 【 http://www.kanze.com/ かんぜこむ】

◆ 能楽らいぶat宗建寺 「春や昔の春ならぬ 〜再び巡り来た春に昔を思う。『熊野  ゆや』をめぐって〜」   4月14日14時半-16時 、宗建寺(青梅線青梅駅徒歩5分)。中所さんのほか、能楽笛方森田流の槻宅聡さん、宗建寺住職・棚橋正道さんが出演。定員80人。いす席あり。3500円。

《申》   042-526-7777   多摩らいふ倶楽部事務局  ( http://www.tamalife.co.jp)。

◆観世九皐(きゅうこう)会春季別会「山姥 白頭」   4月28日12時45分、国立能楽堂(地下鉄大江戸線国立競技場駅駅A4出口徒歩5分)。中所さんがシテを務める。全席指定S正面席1万円、A脇正面席、B中正面席とGB席6000円、学生席(B席)4000円。

《申》042-550-4295、nakashonobuo@nohnokai.com中所宜夫能の会、03-3268-7311観世九皐会(http://www.kanze.com/

 

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